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  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
 
文庫版のためのあとがき

 本書の元版は1972年3月に三一書房から刊行した「池田大作 権力者の構造」である。30歳になる寸前に脱稿、刊行した。当時は一面識もなかったのだが、創価学会批判の先達である藤原弘達、内藤国夫両氏に献本した。嬉しいことに両氏ともすぐ目を通して、まだ若造の私に懇切なお礼状を下さった。残念なことにお二人ともすでにお亡くなりになられた。礼状は私信であり、本来は公表を遠慮すべきだろうが、本書初版がどう識者に受け止められたかを示すため、あえて引用の非礼を冒そう。
 内藤国夫氏の葉書には同年3月21日の消印があった。刊行の直後である。
〈前略、読み応えのある力作、『池田大作 権力者の構造』をご送付いただきありがとうございました。よくここまで調べあげたものと感心しながら読ませていただきました。こういう、しっかりしたものが出てくれば、もう小生の本などはご用済みになっても、文句がいえません。私自身、教えられるところが多々あり、他の公明党創価学会ものより、一段と中身の濃いものとなっていることに敬意を払います。池田大作氏以下学会、公明党幹部にとっても、さぞ耳の痛い事でしょう。今後の一層のご活躍を期待しています〉
 藤原弘達氏の葉書は3月23日の消印である。
〈貴著早速拝見しました。綿密なフォローと冷静の目に感服しました。まだまだ問題は終っていないのに、日本人はとかく健忘症です。本当の闘いはこれからではないかと存じます。御健闘を祈ります。一筆お礼まで。3月22日〉
 今回、あとがきを書くため古い物入れをあさって探し出したのだが、黄ばんだ葉書を手にして、当時の気持ちをまざまざと思い起こした。お二人の御感想に接して、どれだけ力つ゛けられたことか。
 だが、私は怠け者で、次の年サラリーマン生活に舞い戻った。再び書き出したのは1980年からである。
 1980年、創価学会の元顧問弁護士である山崎正友氏、元教学部長の原島崇氏などが学会本部から持ち出した機密資料などをもとに、驚くべき創価学会の実態を暴露し始めた。そのころ私は月刊誌や週刊誌を舞台に執筆活動を再開していたが、両氏のもたらした情報は驚天動地の内容といってよく、胸がわくわくするほどの興奮を覚えた。
 この前後から創価学会本部に勤める職員などから情報が漏れ出し、意外なことも聞いた。本書を手に取った野崎勲副会長が「よくできた本だな」といったこと、秋谷栄之助会長が本書の刊行に危機感を持ち、一時筆者の動向を気に掛けたこと、日蓮正宗の若手僧侶たちが本書を池田大作研究の参考書に使っていたこと――などである。
 本書は『聖教新聞』を創刊時からたんねんに読み込むことで始まっている。特に内部情報を求めたわけではなかったが、池田氏について推測したおおよそは当たっていた。相手側の創価学会から評価されて、逆にそのことを知ったのだが、物書きとしては非常な名誉と心得る。
 もちろん刊行後、創価学会や池田氏からは名誉棄損の苦情や訴訟など、一切受けていない。ただ先輩ライター(故人)から1983年、学会系の『潮』誌などで見当違いの罵詈讒謗を浴びることはあったが、おそらく食うに窮して創価学会に取り込まれたものだろう。それなりに一目置いていたライターであり、学会に使嗾されて晩節を汚すことになったのは彼の為残念である。
 本書の増補改訂版『堕ちた庶民の神』は1981年6月、元版と同様三一書房から刊行された。その「あとがき」で筆者は次のように記した。
「(旧著=元版=が刊行されて9年の歳月が流れ)池田氏の実像はますます明らかになりつつあるが、筆者は新たにお世話になった方々への謝辞のほかには、旧著あとがきを変えたり、つけ加えたりする必要をほとんど感じていない。池田氏の人間性が変わらない以上、筆者の池田氏に対する評価も同様に変わりようがない」
 本書はこの増補改訂版を底本としている。今回、講談社+a文庫の一冊に収容されることになったが、最初の刊行計画は同社生活文化局・柿島一暢氏に発している。同氏がその後『現代』編集部に移られた為、実際の刊行では生活文化局担当副部長・木原進治氏にひとかたならぬお世話になった。底本でお世話になった方々と併せ、末尾ながら深謝する次第である。

2005年8月                溝口 敦

(一部、現状に合わせて改訂しています)

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  • [75]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年12月 5日(月)17時57分26秒
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時代の貧しさと低俗性の産物

 こうして池田は宗教という辛気くさい世界で、組織と自己の人間性を正しく結びつけ、全能者である彼自身の膨大化を
完成し、法外な権力を手にしたのみか、全分野にわたって自らの臭い息を吐きちらした。彼は庶民の非科学的とはいえ、
拠りどころを求めてやまない真摯な心と金銭に基つ゛き、どのような場合でも自己嫌悪を知らない安定した精神と、俗物
風にすぐれた平衡感覚とをもって日本国を望見し、愛用の「余」という単語を「朕」に似せて発音した。
 彼は徹底的な俗物性によって、彼の権力を貫く主要な色調とした。彼が自ら凡人を称したように、その個性は公私両面
にわたる非行にもかかわらず、彼の意識の面では肥大した凡庸にきわまり、そこには興味をひくに足る何ものもなかった。
彼に関心を払わざるを得なくさせたのは、創価学会=公明党という組織に裏打ちされた彼の権力の大いさと、その現れ
方である。
 昭和45年上半期の世論が彼をたたくまでは、彼の綸言は汗のごとくではなく、彼の言葉は彼の言道を規制することが
なかった。彼の権力を政治の場に持ち込ませぬためには、さらに継続的な監視が必要だろうが、ほぼその権力の強大
化は終息し、55年下半期の世論によって彼の今後は風化の過程に入った。
 彼を「偉人」と仰がねばならなかったのは、まさしく時代のもつ散文性の悲劇に違いなかった。現代は大物の役柄でさえ、
つまらぬ管理的な小物にしかつとまらぬ時代かもしれない。後世が彼を記憶しているなら、皮肉をこめて、この時代の
貧しさと低俗性が生んだのっぺらぼうの八岐の大蛇だったと評するのだろうか。


  • [74]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年12月 4日(日)12時18分42秒
  • 返信
 
   アナクロニズムで無内容な文章のたれ流し

 池田が偉大だったのは創価学会=公明党によってだったが、いつしか池田は、組織を離れて裸一貫でも偉いのだと
思いこみ始めた。その思いこみに力を貸したのは彼の著作活動であった。彼の著作はことごとくが大ベストセラーとな
った。
「小説『人間革命』は一巻から五巻まであるし、合計で617万部。『家庭革命』35万部、『科学と宗教』50万部、『私は
こう思う』42万部、『わたくしの随想集』45万部、十月に出たばかりの『私の人生観』でもわずか1ヵ月たらずで30万部
だ」(浅野、前掲書)
 これらは内容ではなく、池田の創価学会会長という地位によって売れたと見られる。彼の本を会員外の者が、どれ
ほど購読したかは詳らかでないが、たとえば『人間革命』五巻で計617万部は、一巻あたり平均123万部となり、購読
者を会員だけとしても、むしろ少なきに過ぎるようだ。公称世帯数に及ばぬことは当然としても、公称教学部員数
185万人にも達してはいない。
 同書は教学部の任用から助師、講師、助教授補、助教授、教授補に至る各級すべての試験に出題され、受験者は
『聖教新聞』に連載された分を読むとしても、利用しやすい形で手元に置きたいだろうから、その多くが購入したであろう。
 まして一般の新聞社、出版社から刊行された随想ものの最高45万部は、大ベストセラーは間違いないものの、池田
の地位にしては、さらに少部数との感は免れず、会員外の購読者はごく少数だったに違いない。そうならば、池田は
なくもがなの自著によって会員の財布をいっそう軽くしたのだから、それによる印税の、会活動への寄付は当然だった
といえよう。
 が、ともあれ池田はこうした実績を踏まえて、私は小説家というより詩人といい、また言論抑圧の際には、
「私自身、小説も書いております。随筆も書いてきました。いろいろな論文も書いております。これからも書いてまいりま
す。近代社会の言論の自由の恩恵に浴している一人であります」(池田『池田会長講演集』 三)
 と、誇らしげにいうことができた。
 彼の本は、講演にしろ、随筆にしろだいぶ収録文がだぶっており、速記による講演や講義、輩下が編集したと思われ
る指導ものを除けば、著作らしい著作はかなり少数となる。
 が、いずれにしろ、池田は一日に九枚から四十枚というペースをもって教義、講演以外にも様々な分野で発言してきた。
『人間革命』のほか、ありきたりの微温の常識をとく女性ものや少年もの、物知りのあまり、カントが「『法哲学』等の有名
な著書を残した」とする『政治と宗教』、科学的な研究の成果が仏法の正しさを証明すると主張する『科学と宗教』、
さらにはまた、その多くが、ああとか、おおとかで始まり、命令形で終わる、時代錯誤の寮歌と星菫派の混合物、デラッ
クスな詩集『青年の譜』をも出版した。
 池田の名による多数の著作は代筆陣に支えられていた。『人間革命』は本部近くで博文堂という書店を経営し、川用
清史というペンネームを持つ作家でもあった篠原善太郎による。また池田の日蓮正宗の教義関係の著作は参院議員
の多田省吾と、元教学部長・原島崇の代作、『忘れ得ぬ人々』は聖教新聞局長の佐々木捷祐、松岡資、『仏教説話』
は同論説委員長の松島淑のそれぞれ代筆、ほかに現教学部長・桐村泰次、総務・野崎勲、野崎至亮、川田洋一、松本
一夫らの幹部も代筆陣の一員であり、彼らは「特別書籍」という名のグループをつくっていたという(『週刊文春』昭和
55年6月19日号)。
 たしかに池田自身、『人間革命』を書くと発表した昭和39年4月1日、「私ひとりではできませんもので、同じく戸田門
下生を代表して、一、二名の人に手伝ってもらう予定であります」(『聖教新聞』昭和39年4月4日)と語っている。その
「手伝い」がどの程度のものか、おそらく代筆にまで及ぶものだったのだろうが、一面、池田もなかなか文章にうるさか
ったのも事実である。内部文書の中には池田が聖教紙の記事を書き直す場面のものがあったり、代筆した原島崇でさ
え、自分は「文章も下手で、先生にずいぶんご迷惑をかけたことも幾度もあり」(原島『池田大作先生への手紙』)と
記している。
 彼の著作の中には全面的な代筆によるものも含まれていようが、そのようなものをも含めて、彼の名による著作には
彼の構想や文飾がなんらかのかたちで混入していることは確かと見られる。芸能人の自伝等によくあるように、短時間
取材して、ゴーストライターがまとめるものとは性格を異にしている。
 ものを書く人間として恥ずべきことにちがいないものの、ここでは一応、池田の名による著作は池田の著作として扱う
ことにする。
 池田は自ら、「私は、あくまでも、創価学会会長であり、仏法の指導者の立場である。政治、経済、教育、学術、芸術
等の、万般にわたる文化の土壌を創っていくのである」(池田『政治と宗教』)と述べた通り、ルネサンス的な全能者だっ
たから、彼の脂ぎった手で言葉を汚し、洛陽の紙価を高める権利を授けられていたのであった。
 池田の全著作は、主として彼の物怖じしない態度の産物であった。彼の著作の水準は、一般紙の読者投稿欄のそれ
を抜くものではない。一般向けのどの書をとっても、陳腐な世智が冗漫に記されているに過ぎず、読了するに退屈で
耐えがたいものばかりである。そこには、宗教者の書いた書籍にときおり見られるハッと胸をつかれる指摘も、にじみ
出て迫る精神の高貴さもなく、逆に池田ほどの権力者だけが持つような邪悪なまでの権力意志のひらめきもなく、ある
のは凡庸と無内容ばかりである。
 また池田の詩にしたところで、小器用さは認められるとしても、その意識はせいぜい明治の段階にとどまり、世界は
円満に自己完結しているのだった。
 彼にあっては少年の心は、結構なことに、「もぎたての果実のように 柔軟」(『少年』)だし、また「少年動かず 月明かり
伝記と歴史の 書をよみて 紅顔可憐に涙あり 正義の心の鼓動楽」(『厚田村』)なのである。月並みというより、むしろ
噴飯ものの語法と発想、貧しさを貧しさなりによしとするリズム、紋切型の感性。ここに、太宰治の作品中、「走れメロス」
だけしか理解し得ない池田の限界が露呈している。彼にとっては、詩は世界の認識ではなく、卑小、甘美な感傷と粉飾
の小世界であった。
 彼はことによると、現代にはまれに見る全的人間だったかもしれないが、それは彼の度しがたいアナクロニズムによ
ってのみ、からくも可能だったのだ。
 池田は売れることを自負とし、会員と同調者からの激賞を内発性にかえて、恥ずかしげもなく著作活動にいそしんで
きた。池田の文章に対して、世間がその発行部数に対したとき以上には、賛嘆の声をあげることを惜しんだのも道理
である。
 曾野綾子は、「ツルツルで読むものの心にナニもひっかからない」、野坂昭如は、「区役所の広報、お知らせみたいな
ところがあるヨ。味もソッケもない。・・・・・ボクはつまらない文章だと思います」と評した(『週刊文春』昭和45年3月30日号)。
またマックファーランドは、創価学会の出版物は、「日本語のも英語のも、露骨なほど宣伝臭が強く、また空理空論な
ものが多い。そして、その文学的な質はきわめて貧しい」としている。
 「昔の人の芸術は実に優秀であった。それは夜は電燈がなく、睡眠を思いきり取ったからともいえよう」(池田『指導メモ』)
という池田学説をもってしても、彼の名高い睡眠時間の短さでは、ロクな詩や小説はできなかったということになろうか。
 池田がどのように知的上昇の思いに身もだえしようと、彼はどこまでいっても似非インテリから抜けられなかった。
彼は23歳時の日記に、「久方振りに、バーバーにゆく。帰り浴場(バス)にゆく」(池田『若き日の日記から』昭和26年
4月24日の条)と、小、中学生並みの英語を使わずにいられなかったが、これと、「学生を、破壊的な抵抗運動に走ら
せたものは、現代大学社会に瀰漫する積年の病弊と、矛盾にあることは誰の目にも明らかである」(池田「学生問題に
思う」昭和44年、『私はこう思う』所収)との、もっともらしい、その実何もいってないに等しい無内容との間には、本質的
な差違はなに一つない。
 ベストセラーが現れると浮かび上がる、やや軽蔑的なニュアンスを含んだベストセラー購読者層という言葉があるが、
池田をはじめとする創価学会員たちは、どうやらその層と多分に重なる疑いがある。彼らはまじめで時流の知識の獲得
に熱心なのだが、どうも偏頗なのである。
 池田はしきりにインテリ的な一家言を持ちたいと願ってきた。おそらく池田の心内には、彼が意識する、しないにかか
わりなく、知的水準の低さが定評と化した感のある創価学会=公明党と、彼自身を同一視しないでほしいとの願望も
あったことだろう。
 そのために、彼はその時々の最新の話題と流行語の使用法を会得した。たとえば池田は、言論妨害を一応詫びた
昭和45(1970)年5月の演説で、日蓮はともかくとしても、ボルテール、エーリッヒ・フロム、ボールディングを引用し、
アインシュタイン、トレンビーを引き合いに出し、またコンピュータ、アポロ13号、アース・デー、世代の断絶、
スチューデント・パワー、ゲバルト、ヒッピーなどに言及、ないし言葉として使っていた。
 だが、それは単にそれだけにとどまり、文章としても構造化されず、つねに上すべりなものに終わった。
「ソ連はこの『言論の自由』の威力が、社会主義国においては、原子爆弾より恐ろしいことを知って、恥も外聞もなく、
武力介入に出ざるを得なかったのであろう」(『プラハの秋』昭和43年、『私はこう思う』所収)
 池田は天下国家を大所高所から論じれば、単に語としての把握にとどまっても、それだけで自身の大物ぶりを自覚
するという快感を覚えることができた。彼はもっともらしさとしかめっつらの教養主義者で、彼がこれぞと思う知識人像に
自らを合わせ、得々と弁じたてた。
 が、そこでは文は人なりの言葉そのままに、池田らしいいくつかの特徴を隠すわけにはいかなかった。
 まず尊大な語り口。「私は・・・・・現在の地球の防衛について、いかにすべきかに思いを致しているのである」
(『人間革命』 四)「私は・・・・・人間の異常さに考えをいたしているのである」(同前六)
 比喩による見せかけの論証。
「自動車も走っていれば、窓から風もはいって涼しいが、止まっていたのでは、風も入らないから、涼しさを味わうことが
できない。同じように信心も前進していなければ、しあわせをわが身にうけることはできない」(『指導メモ』)
 冬ならば涼しいどころか寒いだろうし、風があれば止まっていても涼しいだろう。また窓やベンチレーターが閉まって
いれば、走っていても風は入らない。このような屁理屈をもってしても、この一文は何ものでもなくなる。比喩による論証
は俗耳に入りやすいという利点はあっても、多くが不正確で、偽りの論証にすぎない。
 非科学的な床屋談議。
「戦前、満州に日本人が行くようになったら、それまで鳴らなかった雷が、鳴りはじめた。北海道や東北も、人口が増え
てきたら、雪が少なくなったという。どれほど、人心の動きが、宇宙に瀰漫し影響するかという証拠である」(同前)
 これは床屋談議にはふさわしかろうが、指導と銘打った活字にする文章ではあるまい。いうまでもなく天候は、局地的
な人口増がただちにその局地に影響するようなものではない。天候を決定する要因は多数複雑なはずであり、もし
人口増だけによるのなら、積雪量の年ごとの変化は説明できないことになる。
 総じて池田の文章は、大仰な形容、陳腐な表現、新しがり、論証抜きの断定といった欠点があると思われるが、
さとう・せいこうは彼の文章に即して詳細に批判を試みている。次に再引用する池田の文章は、例の戸田の原水爆
声明に関する『人間革命』の一節であり、よくも悪くも彼の文章の典型であろう。
 「<いったい 『魔』とは、どんな正体なのであろうか。これまで、抽象的な解釈や説明はなされてきたが、要を得た解明
はみられない。だが、根本的には、幸福を奪うもの――人をして、不幸へ、不幸へと落してゆく作用、力であるにちがい
ない。では、その 『魔』を見破ることのできるものは何か。ここに、生命哲学の重大さが浮かび上がってくる。結論して
いえば、『魔』を破るものは、ただ一つ『仏』の生命しかないのだ。魔は絶対に、仏に勝つことはできない。ゆえに、核戦力
という魔の仕業も、所詮は仏の軍勢によって衰退するに至るであろう。核能力の絶滅ということは、二十世紀に時を同じく
して、この地上に出現した、仏の軍勢の使命にかかっている>(池田『人間革命』 四)
 これまたアッケラカンとしている。魔が『どんな正体なのだろうか』と自問しながら、『根本的には、幸福を奪うもの』という
自分で遺憾とした『これまで』の『抽象的な』『説明』しかできないのである。何が『だが、』であろうか。もっとも、それ以上
説明できるはずもない『にちがいない』のであるのだけれども。続けて『魔を見破る』ことがさもさも『重大』そうに語られ、
その証明がメンドクサクなったのであろう、『結論していえば』とくる。そして、『魔は絶対に、仏に勝つことはできない』と
断言し、この断言に勢いつ゛けられて「ゆえに」と、力を入れる。この断言はどこからくるのかは皆目見当がつかない。
例によってアイマイである。そういう時にかぎって彼らはゼッタイニと断言してそこをすばやくスリ抜けてしまうのだ」
(さとう『池田大作を裁く』)
 これにつけ加えることはあるまい。池田の文章の一大特色は非論理という点にあり、ゆえにとか、したがってとかの
論理の帰結を示す言葉を単なる整調に用いる点にある。前章で引用した衆議院進出の演説は、書かれた文章とは
いえまいが、それをよく示していよう。
 このことは池田がなかなか詭弁にすぐれ、飛ばし読みする分には、――もっとも『人間革命』は前述したように教学部
の試験に出題され、会員は熟読玩味を要求されるのだが、――さしてアラの目立たない文章を書けたということでもある。
 彼の臆面もない自己肯定――池田は『中央公論』昭和46年7月特別号「日本の宗教」で、「自己否定と法華経」という
題の文章を求められ、私には書けないと断わった、その結果、「自己変革と宗教者」になったという――と、自己陶酔
――「やや長い睫毛が、影をおとし、稚ない眼元を涼しくしていたが、また、そのあたりに憂いを帯びていた」(池田自身
である副主人公の描写、『人間革命』 二)――をもってすれば、彼は創価学会会長ならずとも、彼自身をモデルとする
スーパーマン的な善玉が主人公の、彼の用語を借りれば、五、六流の通俗小説の書き手には立派になれたとみられる。




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  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年11月25日(金)05時43分39秒
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道具としての女性観と廉潔を裏切る金銭観

 池田の私生活も、私人的な言動も、創価学会=公明党の首領であるという自意識から決して離れられなかった。彼
は戸田の率直さだけは受け継がずに圧殺し、自ら立てた浅ハカな大義名分によって厚化粧した。
 彼は女性との関係に関しては、
「法治国の国民としては、それ(一夫一婦制)に従うべきだ。ただし――ただしですよ、(笑い)――もし、それだけの
理由と力があって、しかも誰にも迷惑をかけないという場合には、一夫一婦制の枠外の行為でも私は男性として認め
ます」(『宝石』前掲号)
 と述べ、妾を抱えていた戸田仕込みの、まことに融通無礙の見解を持ち、今ではそれを実地に試みたと報じられて
いる。『週刊新潮』(昭和55年6月12日号)によれば、池田と「ただならぬ〝間柄〟」の女性は公明党参議院議員・
渡部通子、中国担当副会長・上田雅一の夫人、創価大学図書館長Yの夫人、第一庶務の女性たち、東海研修道場
の女子職員、山陰地方のある幹部の夫人、と多数に上っている(創価学会は同誌に対し昭和55年6月5日、記事の
即時全面取り消しを求めて抗議したが、同誌は6月19日号で逆に「当誌を<誹謗・中傷>する目的で書かれた<許し
難い>文章」だとして取り消しを拒否、その後現在=昭和56年4月=に至るまで同誌記事は黙認されている)。
 池田の対女性観や性についての考え方はいくつかの池田語録にうかがわれる。
 そのうちの一つは本部職員の机の間を動きまわって、目につく一人一人に総括を加えたものである。
「(高田新平君に)精気を奪われちゃった顔して、こっちへこい。快活に仕事ができないんじゃー、しようがない。誰と
結婚したの。(冬木さん)もう五ヵ月たったんなら、いいだろう。夫婦の問題は自由だけど、現場の戦いでは男のいくさ
だ。そこへ(夫婦の)延長がみえるようじゃーしようがない。戸田先生はそれはすごかった。毎日ふるえ上った。女房と
一緒にねられるか!そんなくだらない!とね」(昭和50年10月24日、本部で、内部文書)
 もう一つはフランス日蓮正宗副理事長・長谷川彰一について語った言葉である。
「フランスの長谷川さんも十年前は乞食だった。今ではセーヌ河に家を建てた。奥さん二十歳上だ。フランスの画家の
大家だから・・・・・。(略)うんと絵をうって、といった。それまでなかなか絵を描かなかった。それじゃーやろうと決めて
やりだした。奥さんには長生きして!  といった。長谷川さんには(奥さん)もうじき死んじゃうから、二人目の新しい
奥さん、もらえばいい、といった。僕は内証がきらいだから、いっちゃうけど・・・・・」(昭和50年7月7日、創大職員七月
会との会食で、内部文書)
 池田に信仰者の慎みは無縁である。彼はおそらく平均的な成人男子以上に、女性を快楽の道具とだけしか見ていず、
会内における彼の超絶的な権力者の地位を、超絶的なオスの位置にもスライドさせて一部女性会員に臨んだ形跡が
ある。そればかりか彼は、妻との情交をその夫に承認させることで、幹部会員の全生活面に及ぶ彼の権力を確認する
と同時に、その夫たる幹部の自尊心をくじき、人間性を損ない、自立的な判断を放棄させて池田の命令に絶対服従
する人間につくりかえることにも用いたと見られる。
 池田の行いはうじゃじゃけたものとはいえ、夫たる会員にとっては極限状況的な試練なのだった。ちょうど一睡もさせ
ずに総括して人間改造を図る訓練法のように、彼には己の性器を幹部の「人間革命」に用いたことが疑われる。
 また池田は金に対して身を慎んでいると宣伝してきた。彼の年間所得は昭和49年の1億3,533万円をピークにその
後はほぼ漸減し、54年には3,450万円へと下がったと届けられている。池田の家は創価学会本部近くの東京・信濃町
の一等地にあり、41年3月、家・土地ともに創価学会が播磨造船所から買い取ったものを、49年7月に池田に売却した
形をとっている。池田は41年9月から、創価学会から同家を借りていたが、あらためて買い取ったのである。敷地は
462.84平方メートル(約140坪)、家は木造瓦葺きの二階建てで、一階333平方メートル、二階が111.12平方
メートルと、土地柄からいえば頭抜けた豪邸である。
 内部文書をたどると、この家を池田は創価学会から時価よりだいぶ低目に買ったとみられる。
 まず家を買う前、48年10月8日の記録では、池田はこういう。
「私は、月給18万円ですよ。重労働者だ。家だって借り屋ですよ。(略)私は私有財産ゼロですよ。(略)女房が言って
いた。あなたが死んだら困るからこの家だけでもなんと(か)買ってくださらないかって。中西(注・総務の中西治雄)に
相談したら、7,000万円だという。とても、そんなの買える金がない。高くて買えないよ」(総本山で)
 この年の池田の年間所得は1億1,357万円であり、月割りにすれば946万円あまり、「月給18万円」とは雲泥の開
きがある。が、ここで重要なのは7,000万円という家の価格である。
 ついで51年11月3日の語録では、「私(の)家だって、まだ十年月賦で五分の一しか払っていない。何もない、私は」
(第4回鳳友祭での挨拶)
 という。彼は49年7月に買ったのだから、この時までに二年余り経過しており、ちょうど十年月賦、頭金なしの均等割
りなら、「五分の一」にぴったり相当する。
 ところが一ヵ月後の12月9日、池田は原島宏治(公明党初代委員長)の十三回忌の席でこういう。
「私も、ついこの間までは、借家です。それではまずいということで、いろんな原こう(稿)を書いておりますから、原こう
書いているから今のうちになんとかしなくちゃならないという、強い要請がありまして、十年ばかりで今払っている。
2,700万今残っていますけども、それが実態です」
 彼の言によれば、残り五分の四が2,700万円である。ということは総額3,375万円の家ということになる。48年時、
7,000万円の住宅をその後の値上がりや金利分があるにもかかわらず、池田は半値以下、十年賦で入手したことに
なろう(池田は『週刊朝日』昭和56年4月10日号で、彼の家は7,800万円、銀行ローンで支払い、銀行には十年賦で
返済し、期限前に返し終わったといった意味のことを述べているが、登記簿には銀行ローンの記載がなく、「財産と言え
ば、この家一軒」のはずの彼は何を担保に銀行ローンを利用できたのだろうか、きわめて疑わしい話である)。
 長期間にわたる池田の会内での地位の重要さを思えば安い支払いともいえようが、これが彼の廉潔の宣伝を裏切る
行為であることはいうまでもない。加えて池田にはマルピー代の疑惑が持たれている。
 マルピー代とは中元、歳暮、池田の外遊などに際し、通常のそれらとは別に公明党議員や創価学会の外郭企業、
本部職員などから集められ、池田に贈られる現金である。国会議員や都議が一人3万か4万円、地方議員が1万円か
ら2,000~3,000円、党本部職員が3,000円から1,000円、外郭企業とその社長から多くは100万円単位、少なくて
数十万円が集められるという(『週刊文春』昭和55年8月7日号)。
 マルピー代はその都度、数千万円の現金となって池田の手に入るが、源泉課税されず、池田が所得申告して贈与税
を支払ったという話を聞かず、今では脱税が疑われている。
 池田はこうして所有権において廉潔ではなかったが、使用権においてはなおさら度をこしていた。創価学会は昭和
49年から52年にかけて会員から特別財務として670億円を集め、全国各地に会館や研究所を乱立させたが、山崎
正友の手記(同前、昭和55年12月4日号)によれば、そのうちの三分の一を下らない額を池田専用の豪華施設に
振り向けたという。彼は多くの会館に専用フロアを設け、そこではトイレにまでじゅうたんを敷き詰めさせていた。
 そのほか、池田が国産と外車と、二台の車を乗り換えていたとか、旅行に専任のコックを引き連れていくとかの話が
伝えられている。彼が所有においてより使用において專横をきわめたのは、創価学会規則(45年1月施行)で彼の
利益が保証されていたからである。
 その第17条は「代表役員(池田)はこの法人と利益が相反する事項については代表権を有しない。この場合において
は、第14条第一項の規定に準じて仮代表役員を定める」と一応池田の権限を規制していたが、その第14条第一項
というのは「代表役員の代務者は代表役員(池田)が予め定められた順位により責任役員が就任する」となっており、
まるっきりの尻抜けであった。池田は息のかかった者を代表役員代務者に定めれば、創価学会の財産でも思うがまま
に処置できたのである。
 こうして創価学会自体が池田の持ち物だったから、創価学会への寄付も、創価学会からの借家の買収も単に形式に
過ぎなかったともいえよう。


  • [72]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年11月24日(木)14時45分23秒
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なりあがりの大物好み

 もっとも池田は勝ち抜いてきた者として、大物との人交わりを好み、彼らに親近感を抱いていた。その際の必要条件
は、相手が彼を認めるという一点につきた。彼にとっては彼の権威を認めないこと、彼に礼を尽くさないことにすぐる
権利侵害はなかった。彼はそれを傲慢と決めつけ、皮膚感覚的にヒステリー反応を起こした。
 「威張る者とは戦おう。それが社会正義の人だ。威張るのは、キャラクターとして、最低だ」(小林正巳『池田大作』)
と池田はいきまき、たとえば彼を呼びつけた上、待たせた大野伴睦にひどく恨みを含んだ。創価学会の勢力の伸張と
ともに、池田は表敬に過敏となり、それだけ立腹の機会も多くなっていた。
 が、逆に彼に頼みごとをもって訪ねてくる大物ほど彼を喜ばせるものはなかった。池田は頼みごとを必ずしもかなえ
はしなかったが、依頼を彼の権威の承認と受け止め、ひとり悦に入った。
 池田への依頼持ち込みの最盛期は昭和38年4月に行われた、現職の東龍太郎と、阪本勝が一騎打ちした都知事
選で、この時には大野伴睦、岸信介、南条徳男、佐藤栄作が池田を訪ねているという(草柳大蔵『現代王国論』)。
彼らの依頼が奏効したか、公政連は、それまで都政の欠陥と腐敗を攻撃していたにもかかわらず、その都政の最高
責任者である東龍太郎支持を表明し、多数都民の批判を浴びた。
 池田をはじめとする創価学会=公明党幹部には、つねに正当に評価されていない、世に認められていないという、
被害者類似の意識が濃厚だったから、自らの利益に支障ないと判断できるかぎり、大物に認められ、おだてられれば、
時に豚のように木に登った。
 また池田はこれと思う大物を創価学会の文化祭に招き、参加者名簿をその声望と権力の貯金通帳として眺めた。
42年10月の文化祭への来賓は5,000人にのぼり、『日本の潮流』によれば、そのおもな顔ぶれは次の通りであった。
「政界は三木外相、前尾繁三郎(自民)、賀屋興宣(同)、田中角栄(同)、田中法相、塚原総務長官、劒木文相、柳田
秀一(社会)、佐々木秀世(自民)、石橋政嗣(社会)の各氏ら。美濃部都知事、秦野警視総監、竹山静岡県知事、
東前都知事もローヤルボックスに姿を見せ、じっと見守っていた。官界からも多数が顔を見せていた。
 財界では松下幸之助氏の姿が目立った。銀行関係は田実渉(三菱)、岩佐凱実(富士)、堀田庄三(住友)、金子嘉徳
(東海)、村野辰雄(三和)、原純夫(東京)の各氏ら。
 建設業界は本間嘉平(大成)、竹中練一(竹中)、吉川清一(清水)、渥美健夫(鹿島)の各氏。
 デパートは松田伊三雄(三越)、飯田新一(高島屋)、小菅丹治(伊勢丹)、古屋徳兵衛(松屋)、堤清二(西武)、根津
嘉一郎(東部)、服部礼次郎(和光)の各氏ら。
 製紙業界は熊沢貞夫(王子)、金子佐一郎(十条)、木下又三郎(本州)、白石稔(三菱)の各氏(以下一流企業の大
どころが続くが略す)。
 学者では大熊信行(神奈川大)、清水幾太郎(学習院大)、木下広居(専修大)、磯村英一(都立大名誉教授)、古田
重二良(日大)の各氏ら。それに一流出版社の幹部も数多く姿をみせた」
 池田はこれらの知名人に、動く人絵や人文字を見せて、会員の統制された、彼自身への忠誠心を見せつけ、出席者
に様々の感慨を強いた。森下泰は「団結力」に感嘆久しくしたし、木下広居は「日本の将来に明るい気持ちをもった」
(『週刊現代』昭和42年11月2日号)。
 また昭和38年の関西文化祭を見たマックファーランドは、「こうした大衆のエネルギーと盲目的従順の表明に慄然と
した。第二次世界大戦当時を覚えている者にとっては、こうした光景は決して忘れられるものではない。私の心に、
ナチスの青年大会のニュース映画の一コマや、文明を絶滅させてしまった全体主義の光景が、ちらっと浮かんで来る」
とその著に記さねばならなかった。




  • [71]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年11月19日(土)09時21分57秒
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  池田流社交術

 こうして池田は組織活動に指針を与え、権力を組織的に支えた。しかし首領である池田の役割はそれですむもので
なく、なにかと引き合いに出されては心労のたえまがなかった。
 そのような場合、池田の原理の基調は創価学会=公明党の利益に置かれ、その言動はすべて、組織の利益にどの
ような効果を及ぼすかという観点からなされた。彼は基本的には会外者を信用しないという、油断のない打算をもって
行動し、小心なまでにその権力の保守に汲々とした。
 このことは彼のもっとも得意とする分野、人あしらい、対人の態度によくうかがわれよう。草柳大蔵は池田に関する次
のエピソードを紹介している。
「会員が600万世帯をこえ、『聖教新聞』『公明新聞』が日刊となったときのことだ(昭和40年か、41年)。ある〝大物〟
が池田を訪ねて来て言った。
 『君のところはずいぶん強大な組織になったが、いったい、これからどうするんだ』
 彼は池田の顔を読むような眼つきになった。池田はこう答えている。
 『とんでもないことです。組織はこのへんが頭打ちですし、議員の質にしても、その他の人材にしても、そうは整いませ
んよ』
 『うん、そりゃそうだな』
 池田は、このとき吉川栄治の『三国志』の中の、曹操と玄徳のエピソードを思い出していたという。雷が鳴ったとき、
玄徳は』あな、おそろし』と机の下に潜りこんだ。それを見て、豪傑・曹操は『ハハア、なんたる臆病者か』と笑った。
あとで玄徳は『あのとき、あの豪傑と張り合っていたら、どんなに冷酷な手を打たれるかわからないからな』と呟くので
ある。このクダリが頭にあって、池田は〝大物〟の『創価学会にはもう人材はおるまい』という判断に従って見せた
わけである」(『文藝春秋』昭和44年9月号)
 このプラグマチックな組織防衛反応は、単なるエピソードにとどまらず、池田の言動の随所に見られる反応であった。
彼はしばしば三国志を思い出しては自制し、実利を自分にいいきかせ、今に見ていろとの鬱屈と憎悪の心を養ってき
た。大時代な意気と、粗雑な認識の持ち主である池田にとって『三国志』は、汲めどもつきぬ知恵と指針の泉だったの
である。
 青島幸男との対談でも、彼は次のように応対して青島の鉾先を玄徳ばりにしのいだ。
 「青島 (創価学会が)なんで政治に介入してこなければならないのかという点がもう一つわからないんですね。つい
には議席をふやして与党になり、池田大作が王にとって代わるのではなかろうかというような・・・・・(笑い)心配して
いる人もあるんじゃないかな。
 池田 まるで落語ですね。三議席ふやすのにも十年も命が縮まっているぐらいですよ。与党なんか夢物語ですよ。
・・・・・ファッショだとか、なんとかいうのは、アンチ派の恐怖症ですよ。そんなに簡単に議席がとれますか。とんでもない
(笑い)。
 ・・・・・だいたい私みたいな気の弱いものがファッショの中心になんてなれっこないじゃありませんか。こんな平々凡々
な、面倒くさがりやで、体が弱くて、政治が嫌いで、平凡に生きたいという念願できた人間が、そんなことできませんよ、
おかしくて」(『宝石』昭和44年1月号)
 池田の対人の態度は、大物やウルサ型に対しては笑いにまぎらしつつ、へり下ることが基本型であり、かなり底の
割れやすいものといえた。そしてその卑下には態度ばかりか、内容の割引――嘘も用いられた。「与党なんか夢物語」
という言葉は、池田の心内では、与党にしたいという願望とまるで矛盾せず、与党への有用な過程的な言辞としてだ
け把えられた。そこでは虚言しないという一般倫理は、与党になるとの彼にとっての善の前に吹っ飛んでいた。
 一体に池田は非常に恨みがましい性格の持ち主で、その自尊心は対者の些細な言動でしばしば傷つけられたが、
彼はその場で溜飲を下げることが得策でないと見れば、「生意気」と思いつつも怒りを胸の内におさめた。そのことは
発表時に手入れされたはずの彼の『若き日の日記から』にも、なお散見される。
 昭和26年2月13日(池田23歳)、「吉沢君なぞに於いては言をまたず。――先輩にへつらい、盲目にして生意気な
女性よ。――」
 同年4月7日、「夜、青年部月例部会。出席者、約数十名。男女共に。愚かな、気ざな、幹部が気に入らぬ。町の、
青年部の幹部のつもりでいる」
 28年1月8日(25歳)、「二時、R(竜年光と思われる)宅にゆく。交通事故の、弁償金、八万円也を、整理してあげる。
心からの礼もいわず、いやな同志と思う。利己主義と権威主義の同志ほど、情けなきものはなし」
 同年10月22日、「Y君、少々慢となって来る。そろそろ厳重に、指導の要ある。自分が謙虚になっていると、図に
乗って来る」
 29年6月23日(26歳)、「S宅を訪う。実に生意気である。じっと耐えよう。そして三年後に勝負せんと、帰り、一人
思索する」
 同年7月30日、「大宮方面に出張。K氏の生意気を憤る。5年後、10年後の勝負を――と我慢する」
 同年12月29日、「8蒔、R(たぶん竜年光)宅へ。参謀室の友と共に。生意気な一家、特に女房に怒りをおぼえる」
 陰にこもった立腹の甚しきものは古来小人と決まっているが、まして宗教人にとっては、「生意気」「図に乗る」などの
語や、他人の「女房」を悪しざまにいうなぞは、理由がどうあれ聞き苦しく、池田の野卑な人格、逆投影した傲慢を察知
させてあまりあろう(なお文中の「勝負」とは果たし合いではなく、創価学会員用語で、何年か後をゴールと決め、その
時までにどちらが幸福になっているか、出世しているかを較べる意)。
 おそらく、池田が相変わらず日記をつけているなら、青島幸男は、「青島の生意気を憤る(!)。十年後に勝負せんと、
帰り、一人思索(!)する」と彼の日記につけられたはずである。なにしろ、池田は彼のために、「こんな平々凡々な、
面倒くさがりやで、体が弱くて、政治が嫌いで・・・・・」といわせられたのである。
 もっとも、池田も「勝負」の念いだけでは精神衛生に悪いと知ってか、平凡に関する態度の方を変えて心の不協和を
解消していた。池田の常用する「平凡」は、彼の内部においては決してへり下りを意味せず、自制の代償をきちんと
済ませる構造になっていたのだ。
 「〝偉大な人〟とは、平凡であることの偉大さを知った人のことだ」(池田『指導要言集』)
池田がこのようにいうからには、彼は、「平凡であることの偉大さを知っ」ており、また自ら「平凡に生きたい」と願って
いるのだから、彼は「偉大な人」となる道理だった。まことに語るに落ちる、すさまじい尊大ぶりというべきだろう。
 池田の対人のもう一つのパターンは、彼がインタビューされる企画にもかかわらず、相手(ホスト)のことを尋ねてみ
せるというテクニックだった。相手に関心を持っていることを示せば、相手が喜び、自分の扱いもよくなるだろうという
きわめて皮相な、一面では人をなめた発想である。
 現に前出の青島との対談の冒頭部分で池田はこういった。
 「きょうは青島さん、私のほうから幾つか、是非お聞きしたいことがあるんですよ。
 ・・・・・私の友人でも、うちのお手伝いさんや隣り近所の人にも、青島さんのファンがおりましてね、その人たちを代表
して三、四点お聞きしたいんです」
 嫌味なほどに池田は露骨なくすぐりを常用した。彼にとってはその場を巧妙に立ち回れればそれでよく、品性を疑わ
れそうな卑屈なこともさらりといってのけた。ジョン・ガンサーとの対談もその例である。
 「ガンサーさんは世界における言論界の大統領でありますので、今日は私こそ青年を代表して質問をさせてくれませ
んか。こんどアメリカに行ったときは私はゆっくりと質問を受けますから(笑い)」(『中央公論』昭和41年12月号)
 これでインタビュアーが無名の新聞、雑誌記者になると、これらの手はつかえないから商売ホメ――「わたしは新聞
記者志望でした。息子も記者志望でしてね」――と、対照の妙とでもいうべきテクニック――池田の両側に幹部が並び、
彼らは茶菓にも手をつけず、池田が記者に語る言葉を必死にメモする。その中で池田は悠揚迫らず、お茶をどうぞ、
お砂糖は? などと細かい心つ゛かいを見せる――を使ったようだ。記者は目の当たりにする池田の権威との対照で
さらに強められる池田の頭の低さに感じ入ることを狙う演出である。
 また、池田はしばしばインタビューの予定時間を超過してしゃべりこむというサービスを行った。談話取材者のつねで、
忙しい身にもかかわらず、これほど熱心に他の約束をすっぽかしてまで応じてくれるとはと、ひとしお感激を新たにする
わけである。長時間にわたる異例の会見であったと前書きにうたう記事が、いかに多かったことか。
 池田がジャーナリズムにこれほどの気をつかったのも、池田や創価学会=公明党が何よりジャーナリズムを重視した
からである。昭和45年の言論抑圧批判への逆攻撃のさなかでも、『聖教新聞』声欄に、例の「社会党のうすバカども」
とやった渡部発言(昭和45年1月11日、創価学会学生部幹部会)中に新聞記者への誹謗があったのはまずい、との
投書をのせるほどに、彼らは社会的な孤立をおそれていた。
 さらに池田は必要とあらば、老人の肩を抱き、大石寺で酒を出し、また婆さんに頬ずりし、髪をなでながら「あばあさん、
本当に偉いね。いちばん可愛いよ」(央忠邦)とやることも辞さなかった。重要なのは彼の世評であって、彼の好悪では
ない。
 池田はこれらの泥くさいセリフや仕草を律義に繰り返してきた。彼の人間認識の原型は、人は賞められれば喜び、
へり下れば安心するというみごとなほどに単純なものであった。単純を厚顔にも押し通すという点で、彼は実に優れた



  • [70]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年11月17日(木)20時48分21秒
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   勤勉と型ハメ


 池田はまぎれもない世俗の勝者だった。彼はゼロから出発して、他に較ぶべくもない権力と知名度、地位と潜勢的な
財力をすべて手中にした。彼は精神の世界に所属し、世俗の功利とは無縁であるとの論はあたらない。日蓮正宗の
在俗の信者の団体・創価学会の会長だからであり、また彼の存在と品性のありようからである。
 勝者の第一の要件は池田の力説する通り確信であった。
 「将として、もっとも大事なことは〝御本尊は絶対なり〟という確信をもつことである。確信ほど強いものはない。どんな
事態でも打開し、どんな人でも救い、どんな戦いでも勝ち抜いていく源泉が確信である」(池田『指導要言集』)
 不信と懐疑の蔓延する時代に、池田は教義への確信によって闘争への力を得、また確信をもって感動的なまでの
指導性を発揮した。さらに彼は病・貧・争の出身に由来する人情の機微に関する熟達と、諸々の劣等感とその裏返し
である優越感とをもって効率的に組織の運営拡張にあたってきた。
 池田の成功、すなわち創価学会の伸張は、昭和25(1950)年の朝鮮特需から池田勇人の高度経済成長政策を経て、
GNP第二位に至る日本経済の復興と進展をそのままになぞった。会員はこの間の名目賃金の上昇と電化製品の購入を
自家の家計の向上ととらえ、そこに「功徳のすごさ」の実証を見て、さらに己の会活動に拍車をかけ、その結果、会員は
急増した。
 そしてこの期における池田以下会幹部の指導的な信条は、忙しさの信条とでもいうべきものであった。それは忙しさ
自体がモチベーションになるという奇態な、とはいえ会外でも見られなくはない馬車馬の信条であり、彼らをおそろしく
勤勉な人種にしあげた。創価学会の一中堅幹部(森田康夫、昭和55年8月副会長)は、「忙しいということは、それだけ
存在価値があるということになり楽しい」(後藤弘『創価学会の経営学的分析』)といった。
 この境地は創価学会を絶対とする確信を前提として生まれ、それが彼らの睡眠五時間といった活動を支えてきた。
彼らは日本経済の底の浅さが個人に刻印したいわゆる「モーレツ」や「エコノミック・アニマル」の模範的な尖兵だった。
 池田の思念はつねに、彼の持ち物である創価学会=公明党を離れず、彼はこれまで繰り返し述べた入信神話などの
嘘、戸田のアダ名ヒバリ天をヒバリ男とするような虚栄、仏法民主主義といった用語に見られる折衷のほか、借用、
型ハメといったパターンの駆使において勤勉であった。それらは池田の創始になるものでなく、主として戸田以来の
創価学会に見られるものだったが、池田はそれをさらに拡張して、彼と創価学会=公明党が共有する性向にまでたかめた。
 借用という点では、まず創価学会自体が日蓮正宗の歴史と権威を借用する団体だった。また戸田、池田二代にわたって
愛用の「人間革命」も、昭和22年、東大総長・南原繁の卒業式での演説「人間革命と第二次産業革命」からの戸田の
借用によった。さらに池田による雑誌『潮』の命名も、本来、小口偉一が『世界』(岩波書店)の「日本の潮」欄に無署名で
「創価学会」を書き、それを見た戸田が早速借用して、「いまや創価学会は日本の潮であります」といったことに始まって
いた。
 その他、『朝日新聞』の「声」欄からの『聖教新聞』の「声」欄、公明政治からの公明党の命名、労音に対する民音という
発想、池田の著書における古今東西著名人の言葉の、権威つ゛けを目的とする引用など、すべて借用の例であり、その
最たるものは、公明党参議院議員・渋谷邦彦の『創価学会の思想』3のうち「社会主義と人間性社会主義」における、
民社研議長・武藤光郎『社会主義と実存哲学』からの18ページにわたる盗作であった。
 型ハメとは、まず枠組みや外見をとらえ、もしくは整えてから、という発想である。その濫觴は戸田の教師時分の
「綴り方教育法」――「今のようにありのまま書くのとは反対で、一つの形式を作り文章を自由にこなさせた上で、形式
から創造するという方法だったんだな。今は誰もやりませんよ」(戸田談、『宗教と信仰の心理学』)――に求められよう。
 創価学会で愛用される「方程式」という語、創価学会=公明党の滅多やたらの組織、ポストつ゛くりと、政府や地方官庁
に対する組織設置の要求等が型ハメの例であり、また創価学園生徒への過度の宿題やテストでの締め付けも、この気味が
強かったといえよう。池田の読書論も例外ではなかった。
「いかなる本を読むときでも、最初に〝はしがき〟〝序文〟等を読むこと。そこには、その著者の意図、および思想が
要約されているものです。これは大切なことだと思う」(池田『指導集』)
 これらはすべて内容や理念、伝統を持たないものがインスタントにそれらを取り込もうとする結果だった。実際、創価学会
の教義を現代に適用してみても、具体的な何ものをも創造し得ず、どうしても嘘、折衷、借用、型ハメといった方策に走らざる
を得なかった。第三文明とか真の革新とか、言葉としてはいえても、言葉だけでは創価学会=公明党の経営は一日として
成り立たなかったのだ。
 またこれらは、組織が革新ではなく、安定と永続を目ざすとき、不可避的にとらざるを得ない方策でもあった。戸田時代の
無から有を生じた破竹の勢いの奇跡から断たれそうな不安を覚えた池田は、つねに会員に戸田時代を再確認させる
だけでは足りず、強迫観念にも似て、組織理念の立つ足場をあらゆる所に求めざるを得なかった。理念がつぎはぎ
だらけだろうと、頑丈でありさえすれば、頑丈に見えさえすれば、それで池田は安心出来たのである。
 池田以下幹部たちは創価学会の教義への確信と、忙しさの信条をもって、鋭意これらの方策につとめてきた。





  • [69]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年11月17日(木)20時46分32秒
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   堕ちる権力者像

 本書執筆時点で、池田は第三次の闘いのさなかにあるわけだが、彼が厚い殻皮を形成して現状を耐えぬき、いつの
日か外部環境の良化に伴って蠢動を再開、ガン細胞のように他に転移しようにも、すでに彼を囲い込む世論は動かし
ようがないとみられる。彼を批判するものは昭和45年時には外部社会であり、54年時には宗門という半内部だった。
そしてその後は、原島崇や山崎正友という中枢にいた幹部にリードされるかたちで、糾弾がつつ゛けられた。池田は
敗北ごとに、より手厳しい情報戦にさらされたわけである。
 池田の敗因の一つは、世間の錯覚をおのが自覚とした点にあったともいえよう。
 彼を礼賛する声は創価学会=公明党内部では神格化の域に達して、彼の権力にもう一つ輿望という属性を加えていた。
そして彼は、その会内の輿望をスプリング・ボードに一時期は会外の名声をも博した。それが彼の偉大さを仕上げ、彼を
生きながら偉人伝中の人にしていた。
 池田は、東京急行電鉄社長・五島昇には「日本で〝帝王学〟を受けた人は、皇太子と池田大作とぼくだけ」と評価
された。森下仁丹社長・森下泰にいわせれば「日本歴史、あるいは世界歴史に残る可能性をもつ人」となったし、
児玉誉士夫に至ると「何百年あるいは何十年に何人しか出ない人物」の一人とまで称揚されていた(『現代』昭和45年
2月号)。
 さらに、いちずに池田の偉大さを顕彰する評伝、小説、写真集は単行本だけでも十指にあまり、そのほか新聞、雑誌の
掲載文、創価学会、公明党を扱った刊本中の池田大作偉人説は枚挙にいとまがない。それらの一部はその販路や効果
の上から、「お買い上げ出版」「おべんちゃら本」と目され、「おべんちゃら本」を何冊か物した五島勉は池田を、日本が
狭すぎる、現代の英雄と表題にうたった。
 が、そのすべてが、意図的な阿諛追従をこととしたのでもなく、また「創価学会・公明党と誼を通ずることによってしだい
に筆を曲げていった」のでもなかった。むしろ「誤認識や誤解を正すことがジャーナリストとしての私の責任でもあると
思う」(小林正巳『池田大作』)善意の著述者をして、なお、「抵抗期の純粋な青年や、三百万といわれる女性を社会
活動にリードしている指導者は歴史上にも稀ではないかと思」わせる点に、池田のまことに偉大な特性があったという
べきだろう。
 後藤弘は「創価学会員でもなければ、公明党の党員でもなく、また特殊宗教の宣伝や紹介をしようというものでもな」く、
ただ「創価学会を正しく認識するためにいささかでもお役に立つことができれば幸」と考えて、前に引用した『創価学会の
経営学的分析』を著したが、それでも文中、「池田を当代随一の指導者であるといっても、・・・・・決していいすぎでは
あるまい。事実、私は池田に比肩すべき指導力をもった人材、池田以上の人物を現在日本において見出すことができ
ない」と、池田という人物の前に全面的に脱帽しなければならなかった。
 創価学会=公明党の内外を問わないこうした池田の強大な声望は、すでに棺を蓋う前に彼の名声を定めたかに
思わせた。池田自身の言動がそれを追認するにやぶさかでなかったのも人情の理というべきであった。
 「創価学会は、国連の人口統計からいうと、世界で21位の国家となる」(高瀬広居『池田大作』、高瀬は周知のように
理解ある創価学会通として知られており、その著作からの引用はこの際不適当ではない)と、池田は創価学会が独立
国であることを宣言し、ついで「私のコトバは憲法となる」(同前)と、そこで行われるべき最高法の淵源をルイ十四世風
に明らかにした。
 また池田は彼の馬前に屍をさらすという会員の赤誠を耳にして、暗に会員の範としていた。
 「ちょうど東海道方面で、ある会合があった。百人前後の会合といっておりました。その中で地区部長にある人が
『もし小選挙区制になったらどうしますか。われわれはどうしたらよいのですか』と質問したという。・・・・・その時に、ある
女子部の区長が立ち上って『小選挙区制がしかれるようなことがもしあったならば、私どもは本部の指示を待とうではな
いか。かならずや本部の指示があるであろう。その時は国会前で会長が〝死ね〟といえば死にましょう。〝生きろ〟と
いえば生きましょう。どんな戦いでもその指示を待とうではありませんか。それまでは一生懸命、信心に励めばいいでは
ありませんか』という意味のことをいったそうです。『かならずその時、時に応じて指導があるではないか。そんな心配を
する必要はない』と立ち上がっていったそうです。その時に百人の人は水を打ったように『ああそうだ』と、いっぺんで
わかったそうです」(池田『池田会長講演集』十二)
 組織外からの錯覚も、池田の自覚もやりきれないほどに生まじめなものであった。そこにはほめて、ほめたおすという
シニシズムもなかったし、大ボラを吹いて煙にまくという磊落さもなかった。局外者はひたすら英雄と同時代にあることの
幸せを噛みしめるべきなのであった。



  • [68]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年11月17日(木)20時44分35秒
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  二回目の敗北

 池田は昭和45年、出版妨害に対する世論の批判を浴びて一敗地にまみれたが、それは今となっては第一次敗北と
呼ぶにふさわしいものであった。彼は9年後、会長を退くことで陳謝のかわりとする第二次敗北を喫することになった。
 二回目、彼のうちかつ主役は宗門である。すなわち創価学会規則がその信徒団体であることを定めている日蓮正宗
によって池田は敗れ去るわけだが、その基因は昭和45年5月、池田が世論の批判に陳謝したこと自体に発することと
なった。
 池田の謝罪は彼の意識のなかでは一時、雌伏し擬装するための方便にすぎなかったが、それでも彼以外の人間には
彼が謝ったという事実に変わりはなく、彼もまた誤る人間であることを教えた。池田は昭和42、3年ころにはすでに
マスコミ界に「鶴タブー」を確立して、彼だけは批判されないという特権を享受していた。会内や宗内においてはなおさら
で、池田の日蓮正宗支配に苦々しさを覚えたところで、彼の指導による破竹の勢いの組織伸張が彼らの不満や疑念を
打ち消すばかりか、なかば本気で創価王国の到来や池田の偉大さを信じさせていた。
 だが、池田は世間に対して謝罪した。出版妨害への糾弾は池田を会長就任以来はじめて挫折させ、会内、宗内の
迷妄を砕いた。それは広く宗内におけるルネサンスの契機となった。僧侶も、日蓮正宗の信徒団体の一つである妙信講
も、創価学会の幹部でさえも、いかにそれまで池田創価学会の神話に呪縛され、制圧されていたかを知ることになった。
彼らは会長・池田に讃嘆するだけの生活を捨て、主張すべきを主張したいと願いはじめた。
「『黒い鶴のタブー』との戦いを通して、先生(池田)に疑問あるいは多少なりとも不信を抱く人たちも出てきたのです。
一時的とはいえ、自由、進歩的雰囲気が聖教編集内その他に出てきたのです。しかし、これが創価学会の長年の体質
になじむはずがありません。やがて弾圧が始まったのです」(原島崇『池田大作先生への手紙』)
 しかし池田がつまずくことを一度でも知った人間に、つまずく前の神話を再び信じさせようとの試みは、一時的には
成功したようにみえても、いずれは失敗する運命にあった。
 社会が池田の謝罪を諒として追及の手をゆるめた後も、執念深く糾明をやめなかったのは妙信講であった。妙信講は
すでに昭和44年5月、デパートで開かれた日蓮大聖人展に総本山大石寺から、日蓮六老僧の一人で日蓮正宗の開祖
である日興像が出品されたことに対し批判を加えていたが、昭和45年3月、国立戒壇の放棄は誤りとの糾明書を宗務
当局と創価学会に送って批判を開始した。
 以後、日蓮正宗の法主・細井日達は妙信講の力を借りつつ、創価学会の支配を脱し、奪われた教義解釈権を取り戻す
ことに成功する。その過程で妙信講は解散処分を宣せられ、創価学会は宗門からの独立をちらせつかせつつ宗門再支配
を目論む「52年路線」に突入するが、かえって宗門の反撃に敗れて池田の会長辞任に追い込まれる。
 池田創価学会の第二次敗北である。



  • [67]
  • 池田大作「権力者」の構造

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  • 投稿日:2011年11月17日(木)20時42分22秒
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  野望の挫折

 国立による戒壇は、その後の舎衛三億という遁辞にかかわりなく、創価学会員にあっては、千年王国到来の象徴として
機能していた。
「本門戒壇が建立されるということは、学会員たちにとって、大変な意義を持っている。その時には、天皇陛下も創価学会員
になっているはずだし、折伏の最終目標たる広宣流布も達成されている。さらに、王仏冥合も達成されて、公明党政権が
樹立され、各地方自治体の長も、あらゆる社会機構の長も、すべて学会代表によって占められていなければならない。
それだけではない。ありとあらゆる宗教団体は、すべて創価学会の傘下にはいって、その御神体、あるいは本尊に創価学会
のマンダラが掲げられることになっている。そうしたことのすべてが、正本堂建立の年に実現される」
(植村佐内『これが創価学会だ』)
 本門(国立)戒壇をこのように捉えたのが一般会員であり、また事実、会末端では類似のことが教えられていたし、池田の
発言中にも、彼らのそうした理解を助長させる言説があった。
「よく戸田先生は『天皇が信心したいといってきたとき、他の邪宗では、御本尊様をおあげすることができるか』と。また
『天皇が信仰するまで、戸田は待つ。戸田は日本第一の忠義な者である』という意味のことを申されておられた。先生の
申されたことが、ただひとつとして成就されえなかったことはない・・・・・。
 また、国立競技場、国立美術館、国立公園等も、すべて国民の要望であり、国民のものである。宗教にあっても、最高の
宗教が国民の幸福のために、国立戒壇として建立されることは、必然でなくてはならぬ」
(池田『池田会長講演集』 四)
「広宣流布の時には参議院議員、衆議院議員もいてさ、皆財布の中には少くとも十万や二十万入れて、洋服も月賦じゃない
の着てさ、一つ国会議事堂やプリンスホテルや帝国ホテルで会おうじゃないか。要所要所を全部ね学会員で占めなかったら
広宣流布出来やしませんよ。一つ天下を取るまで諸君は大事な体だからうんと修行して行きなさいよ」
(池田「遺戒置文講義」、『聖教新聞』昭和32年9月6日)
 本門戒壇を、天皇の帰依や創価学会の専権とする解釈が、一般会員の卓抜した活動性を支えていた。いわばそれは
馬の鼻先に吊るされたニンジンであった。だからこそ、47年10月に完成された正本堂が、「事実上の本門戒壇というべき
画期的な正本堂」(池田『巻頭言・講義集』  四)と意義つ゛けられたとき、会員は40年10月の四日間に、自らの生命保険や
銀行預金をあらそって解約し、質屋や古道具屋のつけ値を暴落させて、また殺人や自殺をひきおこして(新宗教新聞社
『創価学会犯罪白書』)当初の建立資金目標額30億円の約12倍、355億円を献金したのだ。
 本門戒壇建立が創価学会員への全役職の大盤振る舞いと同義語であるための条件は、公明党の独裁――国会での
公明党議員の三分の二以上の議席、憲法改変、彼らの信奉する日蓮正宗の国教化――以外にない。そして、それらの
野望を秘匿する合言葉が国立戒壇、つまり国立による本門戒壇であった。
 しかし、公明党は予想外に伸びなかった。その政権獲得に関する、伝えられる池田の当初のスケジュールを見れば、
三分の二以上の議席確保という前提が現実性を失っていたことは明らかであろう。
「40年中に35名を衆議院におくる・・・・・第二段階は44年の選挙に全区から一名ずつ立候補させ、118名を当選させる。
ここで公明党は第二党になる・・・・・44年から48年までに、150名から170名を進出させる。・・・・・第三段階は48年から
52年までで、衆議院に200名から230名を確保する。各地方首長(知事、市長)選に立候補し、連立政権の条件を明らかに
する。第四段階は昭和52年以降、公明党の単独内閣が実現する。党員500万名、学会員3,200万名」
(草柳大蔵 『現代王国論』、高瀬広居 『公明党』 にもほぼ同様の記述がある)
 現在(56年)、公明党は衆議院33名、参議院26名、第三党にとどまり、池田構想の第一段階にも達してはいない。
こうした現実と目標のギャップを前に、池田は41年ころから、目標の格下げという方途を選んだ。そのためのリリーフと
して動員されたのが舎衛三億であった。全国民の三分の一が創価学会員(約750万世帯とされていた)、三分の一が
無信仰の理解者、つまり公明党支持者、残る三分の一が無関心、ないし敵対者という条件が整えば、国立戒壇に
象徴される広宣流布は達成されるというのである。
 しかし、公称世帯数は目標に達しているものの、公明党支持者が全国民の三分の二以上という必要条件があるかぎり、
国立戒壇は馬の鼻先のニンジンであることをやめなかった。たぶん永遠にニンジンを食えない馬は、食えないことを思い
知るか、疲れ死ぬまで走りつつ゛けるはずであった。
 池田発言は最終的に国立戒壇を否定して、鼻先のニンジンを取りはずした。正本堂の建立は広宣流布の終着点である
ことをやめ、その新たな出発点と変えられた。創価学会の大目標は失われないまでも、無限に拡散させられた。
「国家や世界を変えようとする人々は、不満を育てて指導することによって、意図された変化が、正当で望ましいもので
あると説いても、人々を新しい生活様式に強制することによっても成功するものではない。彼らは、とほうもない希望に
火をつけ、それを煽り立てる方法を知っていなければならない。その希望が、天国の望みであるか、地上の楽園であるか、
強奪品と無限の富であるか、濡れ手に粟の成功であるか、あるいは世界支配の望みであるかなどということは、重大な
ことではない」(E・ホッファー、高根正昭訳『大衆運動』)
 正本堂建立という事実によって否定された国立戒壇は、将来、公明党の政権獲得時に国立に移行するとの含みはなお
残しながらも、55年、衆参同時選挙での公明党の大敗はその可能性の芽さえつみとることになった。国立戒壇の否定は、
会員における熱烈な希望の火を吹き消すことであり、それは創価学会の弱体化をもたらさざるにおかなかった。

 政治進出と公明党は国立戒壇達成のための方便であった以上に、創価学会の胸に輝くバッジだった。彼らはそれにより、
岸が、佐藤が、と口にできる社会的な位置と自覚を獲得することができた。またそれは、彼らの努力を一目でわからせる壁に
貼られた成績表でもあった。彼らは公明党の急伸長によってどれほど自己と、自己の所属する集団との力を確信し、励まさ
れてきたか、はかり知れない。そればかりではなく、公明党は彼らの青雲の志もかなえてくれた。池田はしばしば、その著と
称する『人間革命』の中で、地方議員までに立身出世した会員を取り上げ、創価学会の御利益の例証とした。
 公明党こそ創価学会の手形を日本国の通貨に変えるものであった。
 池田の政教分離とは、いぜんとして「学会は、公明党の支持団体」であり、「具体的には、議員で、学会の役職を兼任して
いる場合、党の仕事に専念していただくために、学会の役職は段階的にはずす方向にしていきたい。党の要望もあり、
できれば、二、三年のあいだに安定をみる方向に、党も学会も話し合っていきたい」(池田『池田会長講演集』 三)という
実効性を疑わせるものであり、その曖昧さという点では、公明党の70年度活動方針も、結党大会で政教分離の方向で
スタートを切ったなどとうたい、軌を一にしていた。

 最後に、強引な折伏活動の停止こそ、池田が会内に引き入れた最大のトロイの木馬だった。創価学会員は他教団に
較べて出入りが多く、その歩留まりは4、5割と推定されており、現状維持のためだけにも、たえざる折伏が必要であった。
したがって折伏の停止はストレートに会員減をもたらすが、さらに折伏には会内の新陳代謝を保つ機能があり、新陳代謝
の停止による毒素は、国立戒壇の否定、政教分離とあいまって創価学会の停滞を決して単なる現状維持にとどめない。
 ここで折伏とは「静かに説いて聞かせ、その上反対するならば、師子王の力をもって屈伏せしめなくてはならない」と
『折伏教典』にあったように、本来、創価学会にあっては強引さを不可避とするものであった。
 折伏による創価学会員の増加は、増加自体で完結するものではなく、現に加入している会員に、日々、発展しつつある
会の一員であるという深い充足感を与えた。もちろん、折伏は、折伏した当人の会内での地位の向上をもたらしもした
だろう。が、それは現実的な利益以上の所属の喜び――急成長が創価学会の理念の正しさの実証であると信じられる
喜びであり、それこそ千年王国の到来を間近いと思わせる至福感の根源であった。
 強引な折伏の停止は、会員の充足感の停止であり、創価学会の生命ともいうべき座談会をも腐朽させずにはおかない。
「新来者の多い座談会が充実するというのは共通した報告である。内容の濃い座談会にするためにも、座談会が目指し
て折伏する必要がある」(後藤弘『創価学会の経営学的分析』)
 停滞が転倒であるという、自転車に似る組織原則は創価学会にも貫かれている。座談会の低調が招来するのは
創価学会の立ち腐れである。
 「座談会がマンネリになり、学会員が座談会に意欲を示さなくなったとき、創価学会は衰退するであろう。たとえ外面的
に、その活動がどんなに華やかであったとしても、それは幻影に過ぎない」(同前)
 こうして池田は彼が日本に君臨するという野放図な野心を不発に終わらせたばかりか、そのよって立つべき組織の角を
矯めなければならなかった。国立戒壇の否定、創価学会と公明党の分離、強引な折伏の停止は、彼の自覚の上では一時
をしのぐ偽りの言葉であったが、実際には、彼が自ら行わざるを得なかった運動論、組織論の破産宣言であったにとどまらず、
より根底的な敗北の前提の受け入れであった。
 組織に根拠を持つ池田の権力の構造は、同時に組織の弱体化がそのまま彼の権力の失墜の指標と化すという構造でも
あった。
 池田は昭和45年の経験を、未練にも「法難」として捉えたが、彼にはすでに、法難という言葉の持つ正義も回復力も
なかった。
 「私は、法難というものは、けっして偶然ではないと思うのです。いまさら私のことを言うのはおこがましいことですが、
日蓮大聖人が、小松原の法難を受けられたのが42歳でしょう。二祖日興上人が身延山を下山なされたのも42歳の時、
戸田先生が、入牢されたのもやはり42歳なのです。そして、私が、創価学会とともに、昨年、いろいろの誤解と批判に
会ったのも42歳でしたからね」(二反長半『若き池田大作』。なお戸田の入牢は昭和18年、43歳の出来事で、池田は
意図的に年齢を違えている)
 法難という理解は、池田の人物の尊大さと無原則性、過ぎてしまえばこちらのものという卑しさを物語るが、それ以上に
池田が、社会から加えられた批判になに一つ学ばなかったことを意味した。逆に池田は糾弾キャンペーンの先頭に立った
共産党に報復するため、情報をとろうと宮本宅電話盗聴事件を引き起こすのである。
 だが、その後の池田創価学会の命運を決めた基本は、裏の行動ではなく、表の、彼の口から吐かれた言葉だった。
彼は言論抑圧を問われた際、教義に殉ずるかわりに、教義を対世間にねじまげる策をさらに加重した。政治進出、公明党
結成以来の社会化が、日蓮正宗教義の持つ孤立性を守ることを許さなかったのである。
 池田は、「化儀の広布は第三文明の多角的な活動を含んで進められていく。これに対して、政治などの分野においては
政党や官庁等で、創価学会を憎み、陰険にも権力をもって弾圧し、迫害し、理不尽な妨害を試みる者も出てくることは必定
である。
・・・・・創価学会を妨げ葬り去らんとするものは天魔であり、・・・・・無間地獄に堕ちることを免れないのである」
(池田『立正安国論講義』)という、独善的とはいえ、宗教者として当然な精神の原点を放棄し、なまなかに社会との協調を
選んだ。彼がひたすら組織の保守にしがみつき、自ら信仰の立脚点を否定したことは、会員の信仰に対する矜持と情熱、
張りを損ない、信仰生活の解体をも、もたらさずにはおかなかった。



  • [66]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年11月17日(木)20時39分31秒
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   最初の敗北

 池田の敗北は昭和45(1970)年、出版妨害に対する世論の糾弾に始まっていた。公明党=創価学会の言論抑圧
事件に触発、形成された同年上半期の世論は、その年を池田の前途におよぶ逓減的な敗北の年と決定した。それは
澎湃たる盛り上がりの過程で、すでに「鶴タブー」を打ち破り、批判拒否という池田が長期享受してきた特権を剥奪して
はいたが、より致命的な池田への痛打は、5月3日創価学会第33回本部総会での池田発言を引き出したことにあった。
 その日、池田は言論出版問題に関して妨害の事実を直接認めはしなかったものの、「関係者をはじめ、国民の皆さんに
多大のご迷惑をおかけしたことを率直にお詫び申し上げる」「今後は、二度と、同じ轍を踏んではならぬ、と猛省したい」
(池田『池田会長講演集』 三)と陳謝しなければならなかった。
 この謝辞そのものは、彼の無謬性という神話の破産と一定の良識性の表白と受け取られ、彼の権力にとっては正負
両面に働くにとどまった。彼の終わりの始まりを真に決したのは、これに前後する次の四点の誓約にあった。
 ①政界不出馬 「私自身は、生涯、宗教人として生き抜く決意であり、政界に出るようなことは決してしない」
 ②国立戒壇の否定 「本門戒壇は国立である必要はない。・・・・・したがって政治進出は戒壇建立のための手段では
絶対にない」
 ③創価学会と公明党の分離 「創価学会と公明党の関係は、あくまでも、制度のうえで、明確に分離していくとの原則
を、さらに貫いていきたい・・・・・今後、たとえ票が減ろうと、議員数が減ろうと、それが世論の要望であり、本来のあり方
であるならば、近代政党として、当然の道であります」
 ④強引な折伏活動の停止 「もはや教勢拡張のみに終始する時ではなく、一人一人の社会での成長が、最も望まれ
る時運となってきた」「無理な学会活動をして、社会に迷惑をかけることは、大謗法であり、学会の敵であります」
(池田前掲書)
 これらの発言は、今では不徹底な、偽りの多いものであったことが明らかにされているが、いずれにしろ、彼がここに、
自らの上死点を定めたことを意味した。なぜなら彼は政界出馬という彼の野心と、その実現を保証する組織拡大策をこ
れにより、すべて撤回したことになったからである。
 それまでの彼の野心は、公称会員755万世帯を擁する創価学会会長という現状に甘んじるものではなく、その組織を
基盤とした上での「日本の最高権力者」、あるいは自らを首班とする公明党単独内閣の樹立にあった。いわば彼の政治
的野心は、巨大な組織によって可能だったのであり、政治的野心を抱くこと自体が、彼の権力の一つのありようでもあった。
 5月3日の発言前、池田は苦悶の日々をおくり、「自殺寸前の心境に到った」と語ったが、長年ひめやかに養ってきた
政治的な野望を自ら封殺するのであってみれば、あながち大仰な世迷い言ともいえなかった。
 池田組閣の構想は半公然の事実であり、彼の衆議院出馬という意向の背後には、「(公明党)議席数百を突破しての、
連立による政権獲得構想があった。・・・・・この構想を持っていた頃の池田会長は、『私が教わったのは帝王学だ。私は
最高権力者になる。その時には創価学会を解散してもいい』と語っていた。池田政権によって、王仏冥合が達成されれば、
もはや創価学会の必要がなくなるということであろう」(戸川猪佐武、高瀬広居「公明党はまもなく大転換する」、『現代』
昭和45年7月号)とされていた。
 池田政権は外部からの推測にとどまるものではない。たとえば、「池田先生が、日本の指導者として立っていただく」
(北条浩、『聖教新聞』 昭和40年7月26日)、「正しく戒壇建立の暁には、わが男子青年部の手によって内閣を結成
して」(秋谷城永、『大白蓮華』 昭和39年2月号) 等、創価学会幹部の言々句々にうかがわれるばかりでなく、池田自身、
39年の公明党結成時には党首脳たちに自らを「国父」と呼ばせ、また衆議院の公明党控室には、池田の写真と、その
自筆の和歌「妙法の宝を胸に抱きしめて 君等戦え天下取るまで」の色紙を飾らせた(村上重良『創価学会=公明党』)。
 さらに池田は、40年7月、日大講堂での本部幹部会で、往古の天皇にかわる現代の最高権力者は池田だという
「方程式」を創価学会用語で謙虚に言明している。現代の「最高権力者」を内閣総理大臣、もしくはそれをも凌駕する
トルヒーヨばりの「国父」と解するのは自然であろう。
 創価学会の究極の目的の一つである広宣流布の儀式が行われるとき、こう語った。
「不開門(総本山大石寺にある勅使門)が開く。(はじめて門を通過するのは)一義には、天皇という意味もありますが、
再往は時の最高権力者であるとされています。すなわち、・・・・・時の法華講の総講頭(39年4月から池田就任)であり、
創価学会の会長(池田)がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。(大拍手)
 後々のためにいっておかないと、狂いを生ずるからいうのです。私は謙虚な人間です。礼儀正しい人間です。同志を、
先輩をたてきっていける人間です。そのため、かえってわからなくなってしまうことを心配するのです。そうなれば、こん
どは皆さん方が不幸です。学会も不幸です」(『聖教新聞』 昭和40年7月26日)
 自らを最高権力者と規定するという、池田の国家を遠望する気概を滑稽化しなかったのは、彼のすでに持つ権力の
強大さであった。実際、戦後池田以上に強大な権力を許されたものは、ただ一つ国家のほかになかったであろう。
 意図した効果を作り出すために他人を支配する力が権力とすれば、支配の状態が確固としていればいるほど、また
支配する人員が多ければ多いほど、その権力は強大といえよう。
 池田の権力の強大さは、創価学会公称世帯数755万という圧倒的に多数の会員と、「池田先生が死ねといわれるなら、
死にます。池田先生は絶対間違ったことをなさらない」(高瀬広居『第三文明の宗教』)という、池田によせる会員の盲目的
な信頼心、その二つに裏打ちされていた。
 創価学会の世帯数とは、日蓮正宗の寺院から入信者に貸与された本尊(掛け軸)の累計であり、実数は明らかに公称を
下回るが、およそ宗教団体の信徒数は、その総計が総人口の二倍近いことからも明らかなように、水増しされたもので
あり、水増しされたなりに比較するほか手段はない。
 創価学会の公称世帯数は、戦前、その規模の大きさと行動性で世の耳目を集めた大本教の最盛期の信者数30万名
を足下に見下ろし、出版妨害時、他の宗教団体と比べても、霊友会(約496万名)、立正佼成会(442万名)、生長の家
(218万名)、天理教(191万名)、東本願寺(671万名)、西本願寺(663万名)に大きく水をあけ(いずれも『朝日年鑑』
昭和46年版)、また宗教関係以外の諸組織には、比較すべき対象を持たないほどに巨大だった。
 池田への信頼心、崇敬の念は活動的な末端の会員から最高幹部に至るまで、いわゆるカリスマ的とされる熱烈さに
貫かれていた。元毎日新聞記者・内藤国夫によれば、東京都議会の公明党議員(創価学会員であり、その幹部であった)
は池田について、口をそろえてこう自慢するのを常とした。
「『自民党や社会党の党首や委員長がこういうこと(煎餅や饅頭を買って議員控室に届ける)をしてくれますか。会長
先生はわれわれにも、たえず目をかけてくださるのです。都議会の審議が長引き、われわれが疲れたなと思うと、
きまって〝 しっかりやりなさい。ご苦労さん 〟と激励しながらお菓子を買って下さる。会長先生はなんでもお見通しなの
です。うれしいじゃありませんか』そして池田会長賛辞が競争するようにして続く。
『会長先生はわれわれのお父さんのような方です』 『会長のご指示に従っていれば絶対にまちがいはない。 先生の
ご判断はいつも的確です・・・・・』」(内藤 『公明党の素顔』)
 まさしく、池田からいわれたことをただ「そうか、そうか」ときいて動く団体だから「そうか学会」というとの揶揄がうなず
ける体の池田への忠誠心であり、それが会員数以上に、創価学会と他教団を隔てる要因となった創価学会の卓越した
活動性、資金力を支えていた。
 たとえば創価学会の銀行預金高は三菱銀行220億円、三菱信託銀行50億円、富士銀行60億円など総額553億円
に上ると推定され(44年9月末現在、某有力銀行『宗教法人の預金調べ』、木谷八士『疑惑のなかの公明党』から引用)、
年利5.5%の定期預金としても約27億円の年間利息を生み出し、それだけでも45年の政治資金、社会党6億円、
民社党2.9億円に大きく差をつけ、ほぼ公明党の27.9億円に匹敵するほどだった(旧称ママ)。
 組織の強大さは一応、組織員数と組織員の質(組織への忠誠心や行動性など)の積であらわされよう。
創価学会=公明党は、会員数も会員の質もずば抜けており、両者が相まって、その組織を、政府関係を除けば日本
最大最強のものに仕上げていた。
 池田の権力が直接根ざしたものは決して彼の人間性ではなく、明らかに創価学会=公明党という巨大組織であった。
そしてそれらは池田による単一の支配だったから、池田の一身に組織の持つ力が体現されていた。組織が池田に遠大
な乗っ取りの白昼夢を夢見させ、それに迫力を加えたのだ。
 したがって池田の権力が創価学会=公明党と盛衰をともにせざるを得ないことは自明である。彼は政界への野心を
自ら放棄したが、それにも増して彼の発言中の国立戒壇の否定、創価学会と公明党の分離、強引な折伏活動の停止は、
それぞれ組織という基盤をゆるがし、いや応なく彼の望蜀の一念を破砕せずにはおかないものであった。



  • [65]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年11月17日(木)20時35分58秒
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   終章 池田大作とその時代

 噴出した池田大作批判

 池田大作はあまりにも早く、若くして人生のスタートを切りすぎてしまった。彼は昭和54(1979)年4月24日、それまで
19年間その職にあった創価学会第三代会長の座を降り、名誉会長へと退いたが、過去の功績によって名誉ある老いを
楽しむことは彼に許されなかった。そのとき池田は51歳、壮年の盛期にあり、彼自身、老け込む年齢でも健康状態でも
ないと考えたし、そうした心境にもなれなかった。
 だが、池田に名誉ある「晩年」をより強く許さなかったのは、池田に対する批判者たちだった。彼らは池田が創価学会
の第一線を退き、閑職にあるとは頭から信じなかったし、それ以上に、彼に「名誉」があるとは信じなかった。逆に池田は、
「〝人間革命〟して人間失格」し、告訴してかえって「恥部が見え」、国会喚問して不正を糾明しなければならない
「狂気の二枚舌」(いずれも55年11月7日「創価学会の社会的不正を糾す会」の国会デモで掲げられたプラカード類から)
なのであった。
 かつて、池田は日本最大最強の組織である創価学会のうえに君臨して「天皇にかわる時の最高権力者」と自らを規定し、
あるいは池田組閣を夢見、また華々しい海外著名人との「民間外交」によって、ノーベル平和賞の受賞を真剣に望んだ
人物である。
 どこかで池田の人生設計は狂ってしまった。過去の盛名は「恥を知」らなければならぬものとして泥土に踏みにじられた。
彼の悪名は『ニューズウィーク』誌や『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙などで報じられ、その公私両面にわたる
非行は海外にも知られるところとなった。
 池田が若すぎる悲劇だった。彼を批判する創価学会脱会者による檀徒も、日蓮正宗の全僧侶約600名のうち、正信会
など約半数を占める批判派僧侶も、池田に求めることはおしなべて実質退陣だった。すなわち、池田は日蓮正宗法華講の
名誉総講頭を辞退し、昭和56年10月の日蓮700遠忌での慶讃委員長を退き、創価学会への彼の影響力を断ちきるべき
なのだった。
 いわば社会的な死を要求されていた。晩年でさえ迎えきれない池田が、死を呑めるわけはない。池田は日蓮正宗法主・
阿部日顕と結んで、55年9月24日、批判派僧侶201人を処分するなど、必死に反撃し、危機を乗り切ろうとした。
 だが皮肉にも、池田の抵抗は池田の旧悪を暴くことにつながり、池田はその名誉ある名目的な引退期を、脂ぎった醜聞に
まみれさせねばならなかった。彼は会長だった時期、彼の語る言葉のすべてを記録、保管させ、将来、池田語録や池田
会長史を編ませるための体制を調えていたが、その語録や報告書類が54年9月、元教学部長・原島崇によって持ち出され、
元顧問弁護士・山崎正友のもとに預けられた。
 この内部資料は修正前の、赤裸々な池田像を伝えて、虚像でなっていた池田を撃つことになった。池田は将来のために
蓄えた過去によって現在を撃たれ、過去の栄光を引きむかれた。その挙げ句、彼には、①43年7月参院選をピークとする
大量替玉投票、②共産党委員長・宮本顕治宅をはじめとする盗聴行為、③池田自身と創価学会の脱税の疑い、④国有地
などの土地、不動産の不正取得、⑤公明党との政教分離の不履行、⑥元民音職員・松本勝弥などの裁判での偽証工作、
⑦その他の反社会的行為――の数々が突きつけられた。
 が、これらは池田と創価学会の不正のうち、社会性を帯びた問題に限られ、ほかにまだ池田の私的非行や日蓮正宗教義
からの逸脱が問われた。教義違背については、彼は不十分ながら誤りを認めて会長を退いたわけだったが、その後も改善が
徹底していないと追撃され、女性会員との関係を含む私的非行によって、彼の人格に泥をぬるはめになった。
 池田と創価学会は実際を知られることによって打撃を受け、実像を知らせるかたちでの批判を加えつつ゛けられた。
池田が名誉会長にかわった後も、実質的な権力を創価学会にふるいつつ゛けたからである。
 池田が名誉会長を退き、創価学会インターナショナル会長の座からも降り、正確に創価学会から引退したのなら、批判は
止んだかもしれない。だが池田は若かったし、なにより創価学会あっての池田だったから、実質退陣はできず、創価学会を
道連れにして批判の矢面に立たせることをためらわなかった。
 彼は池田創価学会といわれるまでに、創価学会と一体だった。彼を纉仰する会員の熱気はまだ冷めていず、幹部たちは
池田に引退を直言できるほどの力を持たなかった。彼らは表面上、池田に変わらぬ忠誠を誓って彼を守ることにつとめ、
一人になったとき、しらけて時の流れに問題をゆだねてだけいた。
 池田は敗北の過程にあった。それは穏やかな風化とは遠い、がむしゃらに抗がいつつ迎える敗北だった。彼には、その
権力のありように見合って、脂の抜けた清潔な後半生はおくれそうになかった。



  • [64]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年11月17日(木)20時32分13秒
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   海外進出の実態

 創価学会は、約25万人の海外会員を擁し、各海外支部では、アメリカの『ワールド・トリビューン』、フランスの
『トロワジェム・シビリザシオン』、ブラジルの『ブラジル・セイキョウ』、香港の『黎明聖報』、ペルーの『ペルー・セイキョウ』、
フィリピンの『パガサ』、パナマの『プエンテ・デ・パス』等、現地語による機関紙を刊行しているという。
 これら海外布教の内容や規模はどうとでも評価できる性質のものだろうが、ただ創価学会は41年以来、海外では
日蓮正宗を名のり、布教法も折伏ではなく摂受を用い、国内におけるような熱狂的な拡張策はとらなかった。また
海外支部の多くは当初、戦後国際結婚して海外に渡った日本女性の安息の場、妻に同行して座談会へ行き、
夫婦の危機を乗り切ろうとする夫たちのサロンとして機能していた。
 これらの点から海外布教は、世界広布への一過程というより、むしろ海外移住者へのアフターケア、国内向けの宣伝
という色彩が強いと見られる。少し古い資料だが、『週刊新潮』(昭和41年8月27日号)によれば、創価学会ニューヨーク
会館は個人アパート二室にすぎず、また第三回全米総会を見たかぎり、会員の半数以上は米人、という幹部の前口上
とは様子が違って、日本人以外の顔をしたものは一割程度に過ぎなかったという。
 さらに会員の多くは恵まれた環境になく、「長年外国で苦労し続け、そうかといって堕落することもできないという、
海外マジメ日本人集団とでもいうべき人々」であり、米人の信者にしろ、「日本人妻を持つ男とか、なんらかの形で
アメリカ社会から疎外された余計者の意識を持つ人が多いようだ」と報告していた。
 外国人、ことに欧米人の会員の存在は、近代化=西洋化という把握が日本では一般的だから、創価学会の会内外
へのイメージ・アップ戦術としてはなによりであった。『聖教新聞』には過渡に海外支部活動が報道され、同社発行の
『創価学会』のカラー頁の多くは、外国人の写真で占められている。また彼らの映像と報道は、現実的な基盤を欠く
コスモポリタ二ズム、世界平和の視覚化とイメージつ゛くりにもっとも有効であった。
 池田は会長就任後、毎年一、二度外国へ出かけたが、それは宣伝素材となり得るほどの海外支部へのテコ入れの
必要と、彼自身の教養主義や好みに由来しよう。海外布教の基本は自然発生的なものだったとはいえ、一面では
池田の体質の反映といって過言ではあるまい。



  • [63]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年11月17日(木)20時27分57秒
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   理念なき教育と創価大学

 池田は自らの学歴を高卒から脱却させたと同じ発想をもって、創価学会に知的外見を付与した。その具体化は前述の文化活
動であり、より直接的には学校の設置だった。池田の知的渇望は粉飾にとどまって迷路に踏み迷わなかったため、高踏化をま
ぬがれ、多数の庶民に支えられる同会の現実を否定せず、その夢の幻想的な実現という一面を持った。
 昭和43(1968)年4月、創価学会は東京・小平市に創価学園(当初は中学、高校、男子のみ)を開校した。
 同学園が「健康な英才主義」「人間性豊かな実力主義」の二方針を掲げることからもうかがえるように、そこには受験地獄等、
現代教育のはらむ問題性への批判はなく、逆に現状を無批判に肯定して、その中で勝ち抜こうとし、結果的には現状を加重する
教育しかなかった。
 「44年の受験生は中学1年に合格が決まったとたん、間もなく入学式にもっていく宿題がどっさり届く。内容は、夏目漱石の
『坊ちゃん』ほか二編、芥川竜之介の『トロッコ』ほか二編を読み、それぞれ400字三枚の感想文、小説の創作同じく三枚、
わが郷土の作文同じく三枚、ほかに算数のプリント、絵を一枚書くこと、入学式で新入生に渡された国語、数学、社会などの
教科書は一年と二年のもの。これを一年間にやろうというわけだ。入学式の翌日は早速試験。一年間に五回の中間テストを
行なう」(小林正巳『池田大作』)
 池田の理想の人間は、ほかならぬ池田自身だったから、少年時を懐旧して作文の呆けた重視と、あとはガリ勉への追い込みと
なった。同学園生(高校)の二分の一は理科系志望とのことであるから、大いに作文に迷惑した者もいるにちがいない。
 池田は「私の終生の仕事は教育です。牧口初代会長も戸田前会長も教育者だった。私の仕事の総仕上げもやはりそこへきた。
教育こそ一国、ひいては人類の命運を決する大事業です」と語り(同前)、たいそう教育に意欲的だが、彼には教育界につけ加
えるべき、小理屈でない理念は皆無だった。
「高等部員はできるだけ大学へ進学すべきです。・・・・・男子高等部員はいまからこの決意でいきなさい。・・・・・なお、女子の高
等部員の方は必ずしも全員大学にいく必要はありません」(『池田会長全集』三)
 池田の女性感は徹頭徹尾「女大学」で、彼が女性に要求する知性の程度は、まず家計簿をつけられれば可とするもの(「計画
性のある主婦は、まず、家計簿をつける主婦からはじまる」=池田『家庭革命』)であった。これは、そこへいくと男はやはり大学
を出ていないと、なにかと損で、といった按配の、世にありふれた世智による教育論にほかならない。
 池田は教育の本質を問おうとする理想を持たずに、徒に損得を思量した。だからこそ彼自身、恥をしのんで短大を出た道理で
ある。個々の資質と志望を度外視して、やみくもに大学に行けという殺伐とした利己主義の勧めは、池田と創価学会の体質の
反映であろう。
 創価学園は昭和47年12月、大阪・交野市に創価女子高校、女子中学校を、昭和50年12月には札幌・豊平に札幌創価幼稚
園、昭和52年12月に東京創価小学校をそれぞれ開校している。同学園の理事長は副会長の青木亨である。
 昭和46年4月に開校した創価大学(理事長・唐沢照明、学長・高松和男)にも池田の体質は反映している。
 同校は東京・八王子市郊外の37万平方メートルという広大な敷地に、資金60億円(内訳は池田の印税寄付7億円、創価学会
本部41億円、15万5,000人から寄せられた12億円といったところらしい)をかけて、まず法学部、経済学部、文学部で発足し
た。ゆくゆくは200億円ほどをかけ、文科系4学部、理科系6学部、学生数6,000人の総合大学にする予定とのことだったが、
昭和56年現在までのところ、51年2月に経営学部、教育学部、また50年大学院が設置されたに過ぎない。ふえたのは学生数
だけで5,200余名である。
 また創価大学の受験料は56年度18,000円、入学時納付金は303,150円(入学金83,000円、授業料142,000円、
施設費71,000円など)、入寮者の入寮費は25,000円、寮費は年額50,000円である。
 これは他の私大に比べてやや安い程度で、いずれは事業として成り立っていく金額ではないのか。池田が仰々しく、「教育こそ、
人類の命運を決する大事業である」といったところで、決して彼がすべてをまかなえるわけではなかった。ただ教育が、偉大な池
田の晩年を飾るにふさわしい事業に思えただけである。
 池田は開学にあたって、「人間教育の最高学府たれ、新しい大文化建設の揺籃たれ、人類の平和を守るフォートレス(要塞)
たれ」の三つのモットーを示した。
 人間教育、文化建設、平和というわけだが、ここに人間教育とは、「時代の要請に応えられる人材を輩出するために、人間主義
人間性尊重に基本理念をおく」(聖教新聞社『創価学会』とあるように、せいぜい「期待される人間像」つ゛くりといったところだった。
創価学会の人間教育とは、朦朧語を取り払えば人間革命に先刻見られるように、現状べったりのモーレツ人間つ゛くりの謂いで
ある。
 文化建設とは、「従来の学問体系の行き詰まりを打開して、新しい学問体系を確立することを長期目標としてめざす」(同前)も
のだという。結構だが、池田自身は同校で「純粋の文学論、たとえば万葉集」(『朝日新聞』昭和46年3月16日)を講義したいと
語っている。池田は学的批判にたえるほどに万葉集を研究し、かつそれは新しい学問体系の樹立と関連するのだろうか。なに
しろ池田は、「一日に二十分の読書が、一年つつ゛けばどれほどの学者となり、教養となることであろう」(池田『私はこうして若い
日を過ごした』)という意見の持ち主だから、素人考えでも大いに心配であり、まず彼の影響下にあるかぎり、創価大学による新
学問体系の樹立とやらは「画にかいた、パンに等しい」(餅ではない、池田『人間革命』一での表現)であろう。
 またモットーの一つである平和については『創価学会』に説明がないように、多分に池田の知的アクセサリー言語である。池田
はよく平和を口にするが、それは前述したように伝統にも基つ゛かず、教義としても内在化されていず、その具体的行動といって
は、大学の定礎式で世界135ヵ国の石を投げ込むといった呪術的なものにすぎず、抵抗度の軟弱なものである。創価学会は
青年部を中心に48年以降、反戦出版や反戦集会を行っているが、反面、相も変わらず、自衛隊認知に傾く公明党を支持してい
る。二つの行動に矛盾は存在しないかの如くであり、彼らの「反戦平和」は実効性を問わない存在証明にすぎない。
 なお、創価大学の当初の構想では、文学部のなかに仏教学科が設けられるといわれていたが、昭和56年現在、文学部には
社会学科と英文学科しかなく、一般教養課目のなかにも宗教学の講座はない。佐伯真光はその理由を、高給をもってしても有能
な仏教学者を集められなかったこと、創価学会の信者で、しかも一流の仏教学者は現存しないこと、仏教学の基礎である批判的
文献学を遂行すると早晩、信仰と学問の相克をもたらすことに気つ゛いたこと、の三つに求めている(『諸君』昭和46年10月号)。





  • [62]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年11月17日(木)20時23分59秒
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   池田大作と富士短期大学

 池田は会長就任以来、無私の態度をもって創価学会=公明党の経営にあたってきた。それらは彼の持ち物であり、彼の
内部でその公務と私欲は分かちがたく結ばれていたから、彼はそこから特別、彼自身の利益を引き出す必要を認めずに、
その経営に精励することができた。また彼は創価学会会長と、公明党の事実上の党首の地位を、苦労の末に手に入れ、苦心
しいしい維持してきたから、それらの役回りを演じて、決して飽きることを知らなかった。
 創価学会=公明党は、池田の指令を長年の間、遵守、実効化した結果、池田の人間性を忠実にうつす拡大鏡となった。
 昭和42年、池田はさきに中退していた大世学院の後身である富士短期大学を39歳で卒業した。この晩学は、彼の衰える
ことのない勉学心からというより、学歴面での劣等感に深く根ざすものであった。池田は、会幹部間でも彼の東洋商業卒は目立って
見劣りがすると考え、多くが大学卒の新人の登場とともに、ますますその思いを深くしていたのだろう。
 彼には創価学会会長だから学歴は何でもよいという自立的な自信はなく、ひたすら外部に、ある種の権威を求め、自分の履歴を
ふくらませる姿勢だけがあった。その意味では池田も、たしかに外部志向の「庶民的」人間にちがいなかった。
 卒業二年前の40年、池田は富士短大に復学を申し込み、同校二年に編入を希望した。が、池田の在籍した大世学院は各種
学校であったため、池田の希望は容れられず、40~42年在学の形となった。ただ、大世学院時代の出席日数(全講義日数の
三分の二以上)が考慮され、入学はしても受講は免除された。また卒業試験も、卒業に必要な課目のレポート提出でかえられた。
すなわち、各教官が独自に課題を出し、数ヵ月の期間をおいてレポートをまとめさせ、彼に卒業の資格を与えた。
 この池田の卒業は、『日本の潮流』(央忠邦)では、次のように伝えられている。
「『ついせんだって、卒業論文を書かされたんですよ』と、最近ある時、池田氏はテレながら私に話した〝秘密〟がある。
 富士短大の先生から請われて書いたのだそうだが、その論文は三月末、教授会をパスしている。どんなテーマだか、興味
深いので、私は無理に問題を見せて欲しいと頼んだ。・・・・・
 日本における産業資本の確立と、その特質について論ぜよ
 第二次世界大戦の終了後から、朝鮮動乱の終了の間におけるわが国の産業動向について述べよ
 自由民権思想の諸内容
 あすの産業経営について(以下略)
『この年をして110枚も書いたんです』」
 卒業論文に何本も、また命令文の標題もあり得ようはずがないが、それでも卒業に必要な短いロンブンにかわりなく、また提出を
命ぜられたことも、池田の身分にふさわしくいえば「請われて」になるわけである(断っておくが、ここでは央の書きようをとやかく
いっているのではない。彼の著書は数ある池田=創価学会礼讃書の中ではもっとも良質であり、央は池田の言葉をそのまま記した
にすぎまい。池田は非常に奇態な語法の愛好者で、たとえば『若き日の日記から』〔昭和29年4月14日の条〕では、「朝、客と闘う。
小生悪し。小さな事で、いい気になる自分を反省する」と記している。「闘う」というのは何のことはない、ケンカ、それもおそらくは
口ゲンカであり、ケンカという語の使用はのちの会長としての池田の沽券にかかわるが如くである)。
 池田は早速、さして変わりばえのしそうもない富士短大卒を彼の著書の奥付に書き入れたが、『政治と宗教』(潮新書版)のそれ
には、「1928年(昭和3年)東京に生まれる。富士短期大学卒業。創価学会第三代会長。聖教新聞社社主。公明党創設者」と
あるように、卒業年次を書き入れず、また第三代会長の前に記して、会長就任前に卒業していたかのような印象を与えた。
 彼の短大卒はいじらしく、大いに同情の余地はあるが、それでも肩書だけをほしがるところは成り上がりの系図買いの卑しさと
酷似することも事実である。
 池田の勤勉や向上心は、つねに彼自身と創価学会=公明党のミテクレへの留意、知的デコレーションに情熱と目標を持った。
それは明治新政府の欧化熱、近代化政策、富国強兵策等の矮小化されたカリカチュアだった。彼らの百年遅れの言動は、「昭和
元禄」といわれる一部文化の爛熟と頽廃のまっただ中で行われたから、局外者に怖れの混入した違和感と滑稽感を与えたのも
やむないことであった。




  • [61]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年11月17日(木)20時17分5秒
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   創価学会コンツェルンの完成

 43年6月、7月の幹部会で池田は公明党の外郭団体としての青年政治連盟、働く婦人の会、主婦同盟、民主アーチスト
・クラブの結成を提唱した。
 これを受けて、早速10月、東京をはじめとする全国各地の主婦同盟、働く婦人の会、青年政治連盟が相ついで結成
された。
 主婦同盟は、主婦の地位の向上や消費者調査、児童教育等に関する諸活動を目的とし、昭和56年現在、日本主婦
同盟と総称、東京・赤坂に事務局を持ち、議長は牧野可祝、事務局長は安達三重子、傘下に北海道、宮城、千葉、東京、
神奈川、愛知、京都、大阪、兵庫、岡山、香川、福岡の各主婦同盟を置き、個人会員55,000名を擁するという。
『主婦同盟ニュース』を刊行している。
 働く婦人の会も同様主旨のもので、綱領の二には、「本会は、広範な文化活動を行なうことによって、働く婦人の教養
と資質の向上をはかり、健全な心身の養成につとめる」とうたっている。同会は職業別に八グループに分かたれ、たと
えば、美容師グループは「さくら」、ホステス・飲食店員のそれは「なつ゛な」と名付けられているという。
 青年政治連盟(青政連)の綱領は、中道主義、絶対平和主義、政界の不正腐敗の追求等を掲げ、その四は、「本連盟
は、勤労青年の生活向上のため団結をはかり、その社会的地位向上と、健全なる育成のため広範な文化活動を行なう」
となっている(清水、前掲論文)
 これらの綱領中の「文化活動」はもはや創価学会の特殊用法である含みを薄め、ほとんど一般的な使用法と同じである。
すでに41年2月、創価学会は既成、新興教団の連合体である宗教センター加盟の勧誘を受け入れるまでに(宗教センター
内部の反対で結局、加盟は実現しなかったが)、「邪教」排撃の基本姿勢を弛緩、後退させていた。それにともない、広宣
流布を目指す折伏と同義の「文化活動」も、活動家池田により、その目的の比重を革新から占有に微妙に移されていた。
「活動家は自滅的な紛争と、無謀な狂信者から運動を救う。しかし彼の出現は、運動の動的段階の終了を示すのがふつう
である。現在との戦闘は終わりを告げる。真の活動家は、世界を革新することにではなく占有することに没頭する。動的
段階の生命を与えていたのが抗議であり徹底的な変化への要求であったのにたいして、最終的段階は、獲得した権力を
管理し永続させることにほとんど専心する」(ホッファー)
 池田は一身に、ここにいう狂信者と活動家をかねていたが、このころからの彼の主要な役割は活動家にある。池田により
創価学会は、個人的存在の苦悶や負担からの逃避の場所であることをやめ、公明党を頂点とする文化的な諸活動を通
して、野心家が自己の能力を実現するための手段になり、創価学会=公明党はますます一つの企業に変質した。
 この年43年2月には、「日蓮正宗創価学会の時間」、3月からは「公明党アワー」の放送が開始されている。また8月には
高等部の『鳳雛ジャーナル』、9月に婦人部の『芙蓉ジャーナル』、10月に壮年部の『新社会』といった創価学会各部の機関
紙誌が、それぞれ創刊された。
 さらにこの年、公明党の政策ブレーン的機関として、安全保障研究会と福祉経済懇話会が設置されている。
 安全保障研究会には矢野絢也、黒柳明、多田省吾、正木良明、渡部一郎、大久保直彦らの公明党国会議員のほか、
上智大教授・蝋山道雄、同・武者小路君秀、都立大教授・岡部達味らの学者が参加している。
 福祉経済懇話会には、正木良明、小平芳平らの公明党国会議員、東京女子大教授・伊藤善市、同助教授・島野卓弥、
清水幾太郎らが参加し、公明党の一枚看板というべき福祉経済を学習している。
 44年1月、民主アーチスト協会が芸術家と芸能人によって結成され、代表理事に阿部憲一、理事に秋谷栄之助らの
創価学会=公明党幹部のほか、伊藤雄之助、二本柳寛、川村深雪、和井内恭子といった芸能人が就いて発足した。
協会員には原田信夫、守屋浩、本間千代子らがいる。なお昭和56年現在、創価学会が好んで表面に立てる会員芸能人
には、山本リンダ、朝比奈マリア、研ナオコ、朱里エイコ、泉ピン子、岸本加世子、大野えり、桂木文らがいる。
 民主アーチスト協会のほか、44年に結成された創価学会=公明党の外郭団体は、第三文明協会、大学立法反対全国
連絡協議会(全協)、日中国交回復推進会議準備会、近代学生文芸協会、原水爆反対全国高校連盟、日本科学アカデミー
、新学生同盟(新学同)、日本青年文化会議(同名の団体が他にあったため、45年2月、世界青年文化同盟と改称)、
日本青年平和連盟、日本女子平和連盟、公明党支援協議会、新学生フォーク連盟、日本民謡文化連盟、東洋思想研究所、
新社会研究所など17団体にのぼった(清水、前掲論文)。
 これらの団体の過半はさしたる活動をせず、ただ選挙時に公明党候補を推薦し、その候補が創価学会=公明党以外の
諸団体からも支持、期待されているかのような外見を整えることに用いられ、また他党を誹謗、中傷するビラやパンフレット
の発行元として名を貸した。
 不活発という点では、世の注目を集めた新学同も同様である。
 新学同は、昭和44年5月、池田が学生運動に第三の道を、と提唱した5ヵ月後の10月、東京代々木公園に、創価学会
学生部の公称28万人を母体に全国338大学からゲバ棒とヘルメット姿の75,000人(青年部の動員で多数の非学生も
含まれていた)を集め、結成大会を開いた。反戦、平和、公害闘争をスローガンに、11月、10,000人の都心デモをした
(浅野、前掲書)が、その後は、同盟員公称12万人を組織し、51年まで機関紙『新学同』を刊行するのみで、目立った具
体的な行動をしなかった。
 また新社会研究所は、創価学会の総務や理事である後藤隆一、山本雅治、土屋実らを役員に、資本金100万円の株式
会社組織で、この年4月に設立されている。研究所の目的は情報収集と興信業務だが、46年5月に『新社会情報パック』
を創刊し、それには、「<あなたの情報買います>どんな情報でも結構です」と記されていたという(清水、前掲論文)。同誌
は47年10月、17号で休刊し、新社会研究所自体も同年12月、解散して第三文明社に吸収されている。
 45年7月には、公明党を組織と資金の両面から支援する目的の財団法人日本政治経済連盟が設立された。45年下
半期の同連盟の収入は968万円、支出は3,143万円である。「この組織は蛭田正ひとりで切り回しているような団体で
ある。ちなみに、蛭田なる人物の給料は月額50万円、他の職員は3~5万円である。なお、この蛭田なる人物は職員録、
紳士録・・・・・には記載されて」いず、同連盟の実態も不明確だという(藤原、前掲書)。
 また創価学会=公明党の文化活動の別のあり方として、お買い上げ出版と、出版妨害をあげねばならないだろう。
 創価学会=公明党は、それ自体が巨大なマスコミ産業の一面を持っていたばかりか、その周囲には大小の出版社、多数
の発行主体を擁し、その出版点数、部数ともに莫大であり、またそれに見合うだけのきわめて多数で安定した購読者層を持ち、
日本の活字ジャーナリズム界に隠然たる大勢力を有していた。またその財閥級以上に膨大な遊休の資金によって銀行資本と
密着し、思うがままに影響力を行使できたから、ほとんどすべてが小資本で、経営不安定の出版社や、金銭に乏しく、つねに
注文減や職場の圧力を恐れ、闘う資力のない記者や文筆業者を脅し、出版を取り止めさせることはまったく造作のないことで
あった。
 またそれとは逆に、反骨より迎合に走りやすく、真実より実利に傾きがちの新聞社、出版社、雑誌社、編集者をして、池田、
創価学会、公明党に関する書籍や企画記事を出させ、時に自ら買い上げてやることも、同様に易しいことであった。



  • [60]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 9月24日(土)18時58分20秒
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  折伏のための下工作機関としての民音

 昭和38年5月には、アジア文化研究所が設置された。同研究所は東京の東洋学術研究所に対するものとして京都
に置かれ、翌39年5月に季刊雑誌『アジア文化』を創刊している。同誌はのちに東洋哲学研究所のアジア文化編集部
から出されたが、51年3月、12巻4号で休刊している。
 38年9月には民音(民主音楽協会)が労音に対抗して設立され、本部を新宿区信濃町の聖教新聞社内に置いた。
民音は一般国民の創価学会支持の獲得を狙って設けられ、組織論的には折伏のための「下種」つ゛くり(下工作)機関
と位置つ゛けられよう。
『聖教新聞』(昭和41年7月2日)は「民音に参加しよう」という社説を掲げ、その面でのいきとどいた注意を会員に与え
ている。
「・・・・・学会員でない人々を、民音に参加するよう勧めることも、また明るい健康な文化社会の建設に努力する学会に
対する理解を深めていくひとつの要因になる。・・・・・ただ注意しなくてはならないのは、(民音の)演奏会終了後、帰り
道などで性急に折伏を行うことである。・・・・・折伏するなら、また別の機会に、あらためて行なうのが、ふつうの場合は
正しい行き方であろう」(清水、前掲論文から引用)
 民音は40年1月、財団法人に許可され、専務理事・秋谷栄之助の下で活動領域を拡大した。同年5月には民音アワ
ーの放送を開始し、10月には会員78万人と発表し、43年10月には民音プロダクションを創設している。また民音の
類似機関として39年6月に、民演(民主演劇協会)が設立されている。昭和56年現在、民音の代表理事は姉小路公経
、専任理事は吉田要、理事に宮川昕也らがおり、年会費200円を納めている賛助会員145万名、職員190名という。
月刊で『みんおん』を刊行している。民音の入場券押しつけは名高く、一方的に各ブロックごとに券を送りつける時期も
あった。
 39年2月には、アジア民族協会が発足した。アジア問題、ことに文化交流を目的とする機関で、45年5月から季刊の
機関誌『民族文化』を編集、日蓮正宗国際センター(理事は和泉覚、滝本安規)から刊行していたが、53年冬14巻3号
で廃刊となった。なお昭和56年現在、日蓮正宗国際センターからは海外会員向けの英字機関誌『SEIKYO TIMES』
(月刊、昭和37年3月創刊、公称5万部、編集長・松田友宏)が刊行されている。アジア民族協会の一時期の理事は
中尾辰義、鈴木一弘、渡部城克、黒柳明、山崎尚見の5名であり、創価学会の政治進出の進捗に対応するアジア政策
面での下部機構であった。
 またこの39年には、東西哲学書院が資本金100万円で設立されている。同社の役員は篠原善太郎、中西治雄、星
生務ら創価学会幹部がつとめ、その事業目的には、潮出版社と同様、軽食、喫茶、保険代理業、文房具、化粧品、タ
バコの販売、美術品即売会、貸画廊までをも掲げている。『牧口常三郎全集』などを出版し、54年には4億7,500万
円の利益をあげたという。
 社長は創立以来、池田『人間革命』のゴースト・ライターといわれる篠原善太郎で、昭和56年現在の資本金は5,062
万円、東京・信濃町の本部近くに書店「博文堂」、レストラン「ハクブン」「ニューハクブン」、青山に寿司「満月」、大阪・
都島に「オーサカ」などを経営している。
 40年10月、創価学会は政治資金300万円を出資して財団法人公明協会(41年2月認可)を設立した。同協会は
公明党の財産管理部といった役割をにない、その事務所は公明党と同様、新宿区南元町の公明会館に置かれ、代表
は公明党書記長・矢野絢也、役員には石田幸四郎、吉田顕之助、阿部憲一、小平芳平ら、創価学会=公明党の大幹部
が連なっていた。
 公明党は創設から44年6月までに公明協会の収入の9割強、4億円を出して同協会に公明党のための土地、建物の
取得、車の購入等にあたらせた。公明協会は43年中に車両運搬費9,800万円を支出したが、そのうち8,600万円
を千代田区美土代町の阿部商会一社に集中支出したという(「黒い〝鶴〟のタブー」44)。
 阿部商会は資本金4,179万円の株式会社で、自動車タイヤ、チューブ、部分品、計量器の販売を目的とし、代表取締役
は阿部文治、取締役の一人に小宮開造がいる。小宮は養子にいった池田の実兄である。
 また公明協会は年々財政規模を拡大し、45年下半期の収入は3億2,897万円、支出は2億365万円にのぼった。
が、47年1月、品川区上大崎に事務所を移し、48年千里ニュータウンでの土地問題の証拠隠滅のため解散した。
 41年7月には、男子部の機関誌『青年ジャーナル』、女子部の『華陽ジャーナル』がそれぞれ刊行されている。
 創価学会文化局は39年5月の公明党結党、衆議院進出の決定と同時に、その政治部を解消していたが、42年5月、
池田の会長就任7周年目に、新たに理論部を設置し、さらに衆議院活動のための理論的準備を急いだ。
 理論部は第1部から第8部に分かれ、それぞれ創価学会=公明党大幹部の主任が置かれて次の名称を付された。
①東西哲学研究会 ②現代思想会議 ③政治刷新懇話会 ④中道政治研究会 ⑤福祉経済研究会 ⑥現代マスコミ
研究会 ⑦近代マスコミ同志会 ⑧パールペンクラブ
 これらは『聖教新聞』『公明新聞』に時に論文を発表しているが、中でも主任・秋谷栄之助の現代マスコミ研究会が最も
活動的で、44年5月には聖教新聞論説副主幹・岡安博司との共同編著で『創価学会と公明党』を総合ジャーナル社から
刊行している。総合ジャーナル社は41年11月に創刊された文化部の機関誌『文化創造』の発行元でもあるが、昭和
56年現在は休業状態とみられる。
 またこの年11月に、池田は総評、同盟に対抗する公明党の支持労働団体・民労(日本民主労働協議会)の創設を
提唱した。が、労働界の反撃と、公明党の社会、民社両党との共闘関係により、いまだ提唱だけに終わっている。




  • [59]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 9月18日(日)13時43分43秒
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  知的アクセサリーとしての文化機関

 一月に設立された東洋学術研究所は昭和40年12月に財団法人東洋哲学研究所と改組され、『東洋学術研究』
(年二回刊)という雑誌を出している。一時期、代表理事は篠原誠、理事は多田省吾、原島崇らであったが、昭和
56年現在の理事長兼出版代表は後藤隆一、編集代表・穂坂幹夫である。1億7,600万円の資産を持つ。
 同研究所は創価学会系「研究所」のはしりで、その後、創価学会は現代宗教研究所、現代仏教研究所、新社会科学
研究所、現代思想研究所、東洋思想研究所など、多数の機関を設置している。それらは創価学会理論の構築、豊富
化を意図するものだったが、見るべき成果をあげられなくとも、いかめしい名称を付された存在それ自体が、創価学会
の知的アクセサリーになるという仕掛けを持っていた。
 また、その一つである現代政治研究所は、公明協会(後出)所有の元赤坂のマンションに事務所を置き、月刊誌『現
代政治』を刊行していた(昭和45年6月、28号で廃刊)。同誌は『公明』と『潮』の中間をいく創価学会の政治理論誌で
43年3月に創刊、会員外には無料で配布され、公明党が資料研究費名目で年間(43年3月ー44年3月)1,100万円
を同研究所に支出していたという(「黒い〝鶴〟のタブー」36)。
 同誌の執筆者の多くは一般新聞の論説委員、政治部記者、学者だった。
「この『現代政治』の執筆者を見て感じられることは、8割までが各新聞社の論説委員クラスの人たちであるということ
である。このことは、これまで新聞が極力創価学会・公明党についてふれることを避け、批判らしい批判をしなかった
事実を考え合わせると、そこに『なにか』を感ぜずにはいられない」(上条、前掲論文)
 9月に創刊された『公明』は公明党機関紙局から発行されている月刊政治理論誌で、編集長は市川雄一、昭和56年
現在、7万部を刊行している。公明党からは『公明新聞』(日刊、37年4月創刊、公称85万部、代表・市川雄一)、『公
明新聞・日曜版』(44年10月創刊、公称140万部)、『公明』のほか、党内部向けの『公明月報』、『公明グラフ』(35万
部)、『公明写真ニュース』等が刊行されている。
 『灯台』は一般主婦と教師を読者対象とした月刊雑誌で、はじめの発行元は灯台刊行会、昭和56年現在、前述のよ
うに第三文明社から刊行されている。
 『言論』は当初言論部の月刊機関誌で、39年末、公明党の発足とともに、同党への支援を目的に自由言論社から旬
刊誌に衣替えし、40年なかばに、週刊にかわって『週刊言論』となった。池田の「若き日の日記から」を連載し、その後
発行元が潮出版社に移り、前述のように47年に421号で休刊した。
 またこの年37年3月には鳳書院が資本金100万円で設立されている。同社は秋谷城永『創価学会の理念と実践』、
小平芳平『創価学会』を出版し、その歴代の役員には北条浩、秋谷栄之助(城永)、多田省吾、青木享、小島重正など
の創価学会大幹部がついていたが、昭和56年現在、休眠状態とみられる。
 昭和56年現在の資本金は1億8,000万円、事業目的には書籍、雑誌の出版販売の他、喫茶店経営、玩具・古物
の仕入れ販売が掲げられ、また一時期不動産売買も手がけていたという。
 池田はこうした多面的な出版活動について、「共産主義者は、ソビエトで、何よりも先に印刷工場をつくった、と聞いて
います。そうすることが革命への方程式だとも聞いています。広宣流布という大事業をやろうとした場合、われわれも
当然出版に力を入れなければならない。それを実行しているだけです」といっており(央忠邦『日本の潮流』)、喩が大き
すぎるきらいはあるにしても、心情的にはそのようなものだろう。が、出版社経営を含む出版活動には、別に、大幹部
の収入の途を講ずるといった面があったのではないか。現に池田自身の基本収入は印税のほか、聖教新聞社主とし
ての手当である。読書人口とはいえない階層も信心の付加によって組織されると、たちどころに良質の購買者となり、
創価学会とその大幹部たちの経済を悠揚迫らざるものにしていた。



  • [57]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 9月12日(月)15時51分3秒
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文化活動の強化

 池田の会長就任時、創価学会の定期刊行物としては、『大百蓮華』『聖教新聞』『聖教グラフ』の三紙誌を数える
のみであった。
 これらはいずれも会員を対象にしたもので、創価学会独自の販売店を通して会員に売り捌かれた。一般の定期
紙誌とは異なり、営業面での危険性は少なく、利潤はきわめて大きく、また安定していたが、購読者数の増加を
会員増だけに仰ぐという閉鎖的な、内部結束用の刊行物であった。
 一応、これらの概況を述べておこう。
『大百蓮華』は月刊誌で、昭和24年7月に創刊された。聖教新聞社の発行で、教学部研究室長・原島崇が54年
8月に除名された後、同年8月号から編集兼発行人は桐村泰次。内容は同会の教義理論誌といったところで、
55年1月現在の公称発行部数は244万部であり、その部数は実質的な創価学会員数をつかむ有力な目安の
一つである。
 『聖教新聞』は同会の日刊機関紙で、昭和26年4月に創刊された。はじめ旬刊で発足したが、28年9月に週刊、
40年7月に現在の日刊紙に移った。発行元は聖教新聞社。55年時の公称発行部数は454万部で、広告料も三大
紙並みという。
 昭和56年現在、聖教新聞社の代表は秋谷栄之助、出版代表・山崎良輔、編集代表・松岡資、営業代表・横松昭
である。従業員は1,300人だが、一時期、創価学会の外郭団体である「21世紀研究会」「近代マスコミ同志会」
「現代マスコミ研究会」「近代思想研究会」「東洋思想研究会」等が取材陣をカバーしたという(浅野秀満『あすの創
価学会』)。
 『聖教グラフ』も同社の刊行物で、池田の創価学会総務時代、34年1月に創刊された。当初の年刊から、その後
季刊、月刊と変わり、37年3月に現在の週刊となった。聖教新聞の写真版といった内容で、55年時の公称部数は
109万部、編集長は乙成宣昌である。
 なお聖教新聞社は池田の『立正安国論講義』などの講義ものや『人間革命』既刊十巻、創価学会教学部編『創価
学会入門』など、会員に教科書、参考書として読まれる単行本、46年からは聖教文庫なども刊行している。
 以上の三紙誌がすべて会内コミュニケーション用だったのに対し、池田による文化面への進出は、会外部に向け
ての宣伝に重きが置かれ、その統括には36年5月に設立された、前述の文化局があたった。
 文化活動という語は曖昧だが、創価学会においては、「広宣流布は文化活動である」(『聖教新聞』昭和36年5月
13日)と、広汎に定義され、具体的には政治、経済、教育、言論、学芸等に関する、同会のセクションと、公明党を
筆頭とする外郭団体の活動、それらにともなう出版活動を意味した。
 清水雅人は、創価学会が「広宣流布は文化活動である」という以上、文化局の活動は、さまざまの名称で呼ばれた
ところで、結局、間接的な折伏、間接布教にほかならなかったと指摘している(清水「創価学会文化局」、『中央公論』
昭和46年7月特別号)。
 池田の文化面への進出には、かつて選挙運動を文化運動と称したと同じ思想がより巧妙な形で貫かれていたわけ
であり、その目的とするところは、贅沢な資金を新事業に振り向けてさらに増収をはかるという営業的な側面、現代風
な組織や刊行物による、創価学会の知的デコレーション――イメージ・アップ策、間接侵略風の思想工作、の三つが
あったとみられる。
 池田の最初の文化面へのスタートは昭和35年6月創刊の『潮』できられた。同誌は当初、青年部の機関誌で、市販
されなかったが、38年4月から、現在の創価学会臭をほとんど感じさせない月刊総合雑誌へと編集方針を転換した。
 『潮』は創価学会の「一般への窓」(央忠邦)の最たるもので、上条末夫はその機能を、「第一は、文化人の〝撫徇
工作〟であり、第二には一般人の〝懐柔工作〟である」(上条「創価学会の〝文化人工作〟」、『改革者』昭和45年
3月号)と評している。執筆場所の提供や高額な謝礼によって、大学教授や文化人に関係をつけ、また心理的な負い
目を負わせて彼らを自陣、もしくは中立に立たせ、さらに購読者に対しては、著名な文化人の執筆論文で釣り、創価
学会アレルギーを解消するという戦術である。
 昭和56年現在の発行部数は32万部といわれ、発行は潮出版社(42年12月設立、資本金1,600万円、従業員
86人)が行っている。同社は一時期、『週刊言論』(公称50万部)、季刊雑誌『日本の将来』を発行していたが、『週刊
言論』『日本の将来』とも47年11月で休刊している。潮新書、潮文庫などを持ち、44年には2億169万円の利益
(税務申告)をあげている。
 代表取締役は旧華族の島津矩人、取締役に創価学会総務の池田克也(編集局長兼任)、八矢洋一、他に公明党
国会議員の黒柳明、渡部通子も取締役だったが、言論抑圧問題の最中、45年3月11日に、同年1月5日付の辞任の
登記をしているという(「黒い〝鶴〟のタブー」25、『赤旗』昭和45年4月8日)。
 昭和56年現在の社長は富岡勇吉、編集代表志村栄一であり、「ヤングミセスの生活全般にわたる実用実利を追求
する」と銘打つ『婦人と暮し』(月刊、48年4月創刊、公称52万部、編集長・鈴木征四郎)、少年漫画誌『少年ワールド』
(月刊、53年7月創刊、公称30万部、編集長・門脇良充)、『別冊少年ワールド』なども刊行するようになった。
 また同社の設立目的には、雑誌、書籍、レコードの出版、販売のほかに保険代理業、不動産の売買、仲介、賃貸し、
植木の栽培、通信教育、講演会の開催等が掲げられている。保険代理業や不動産業は戸田以来の創価学会系企業
の伝統である。
 『潮』以外にも35年には創価学会学生部の機関誌『第三文明』が創刊されている。同誌は創価学会教義の応用誌と
いった性格をもち、のちに第三文明社の刊行になる。同社は以前、公明協会の所有するマンションに事務所を構えて
いた創価学会系の出版社である。創立は昭和44年7月、資本金1,800万円で従業員30名。社長は栗生一郎、編集
代表・狩野良平という構成であり、月刊誌の『第三文明』(公称18万3,000部、編集長・佐々木利明)のほか、月刊の
教育研究雑誌『灯台』(37年創刊、公称26万5,000部)、レグルス文庫などを刊行している。なお同社は、今では山
崎師団の現場指揮官・広野輝雄、北林芳典などが一時期、在籍したことで知られている。
 また学生部は38年10月に『学園ジャーナル』を発刊し、さらに週刊機関誌『大学新報』公称15万部を大学新報刊行
会から発行している。
 36年は文化局とその下部機構の設置に費やされ、翌37年に創価学会は具体的な文化活動に入った。この年は文
化面での全面進出への転換点ともいうべき多彩さで、おもな事項を拾っただけでも、次のように活発である。
 1月27日   東洋学術研究所設置
 4月2日    『公明新聞』発行
 8月4日    富士吹奏楽団結成
 8月21日   広報局に映画部設置
 9月13日   『公明』発刊
 9月18日   教育部機関誌『灯台』発刊
 11月1日   言論部『言論』発刊


  • [56]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 9月 6日(火)16時50分59秒
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一体不二、創価学会=公明党のジレンマ

 公明党は多種多様なポストを備え、しかも各セクションごとに階級制度を確立して、その機構は完璧といって
いいほど整備されていたが、一面、その曖昧さも驚くばかりだった。
 内藤国夫『公明党の素顔』によれば、公明党の最高決定機関は中央幹部会だったが、幹部会のメンバーを
当の中央幹部会員ばかりか、党副委員長・北条浩も知らず、また選挙が近つ゛くと、東京の各選挙区からの
立候補者のほぼ全員十名ほどに重みをつけるため、都連副幹事長の肩書をつけ、そのことを質すと、「少し
多すぎましたか」との答えが聞かれたほどだという。
 この機構信仰は創価学会も同様で、昭和45年8月1日現在、戸田時代には5~7名であった理事が1719名
驚異的に増え、そればかりか戸田時代にはなかった総務76名、副理事長186名、理事補262名まで任じられ
ていた。
 これは池田の近代化政策と、組織の大きさを印象つ゛ける主要な方式であり、またポストを与えて会員の心を
つなぎ、多数を衆愚と化して池田の独裁を円滑に行う狙いをもつ愚民化政策であった。
 なお暴露戦術にも政策の貧困の補填策の側面があった。公明党は、多数の組織された創価学会員が各
サービス業に耳と目を持つため情報に不足せず、また何より暴露はジャーナリズムを喜ばせて本格的な政策
論議以上に、公明党の宣伝に有効だったから、決算委員会政党といわれるまでにそれを頻発した。
 公金の使途、官庁のミス、他党のスキャンダル、高級官僚の天下り、招待ゴルフなどのスッパ抜きが、一定の
社会清掃機能を持つことはいうまでもないが、その中には公明党議員の読み違いによる事実無根の暴露も
混在していた。答弁に立つ役人は、たとえ公明党議員の誤まった指摘と承知していても、彼らからの後難を
恐れ、陳謝するだけで反論しないケースがかなりあったという(内藤、前掲書参照)。
 国立戒壇の建立を政治進出の大目的としたことは、また、公明党の機会主義、マキャべリズム、ヌエ的などと
評される、その政治行動の特徴を形成した。公明党にとっては、党勢の拡張と議席増だけが国立戒壇建立に
到達する最短路だったから、自党に有利とあれば、どのような陋劣な方策も辞さなかった。
 同党は国会や各級地方議会で第三党のキャスティング・ボートを握ったうえで、彼らの議案に対する態度を
自民、社会両党に商った。創価学会=公明党は批判拒否体質といわれたが、批判拒否は外部のみならず、
内部においても池田からの批判を除けば同様だったため、その政治行動を下部からつき上げられる心配が
なく、気楽に行動を決定し、また変更した。
 公明党は多く土壇場で自民党についたが、議案への賛否の理由は明確でなく、また明示もされなかった。
同党は、戸田の「政治は技術である」(戸田『巻頭言集』)という言葉を鵜呑みにして、そのジグザグ路線や権謀
術数を非難されても決して恥じず、むしろ国立戒壇という大目的の前に、それらを全面肯定し、聖化した。他党
からの批判、非難に対しては本質論的に応えず、インチキの混入した暴露戦術で牽制、反撃のかわりとした。
 こうした政治行動は多くの有権者の不信をよび、浮動票を集められなかった。そのため、公明党は票集めに
良いとわかれば、革新のポーズをことさらに誇示した。が、彼らの態度を最後に決したのはポーズではなく、
いつも、反共という同党の本音だった。
公政連―公明党のマキャべリズム、ペテンの例は、昭和44年暮れの衆院選から言論抑圧問題を経て、45年
4月の京都府知事選に至る変転きわまりない無原則性を頂点に、38年の都知事選から55年12月の第18回
大会に至るまで、ほとんど枚挙に暇がないほどである。
 だが、それでも公明党は創価学会の最高、最大の看板でありつつ゛けた。法的にも特別の待遇を保証される
国会議員を何十人と擁したことは、創価学会のイメージ・アップの材料として、これに優るものはなく、もっとも
有効な宣伝媒体にちがいなかった。
 池田はそのような公明党を決して手放そうとはせず、ことあるごとに、両者の基本関係に言及して、自己の
支配下につなぎつつ゛けた。
「創価学会は宗教団体であり、公明党は政治団体である。ともに日蓮大聖人の教えを奉じ、王仏冥合をめざす
同体異名の団体である」
「創価学会を離れて公明党はありえない、もし創価学会を離れた独自の公明党があるとすれば、それは既成
政党とはなんら変わることのない存在(であり)、創価学会と公明党は、永久に一体不二の関係(である)」
「私は公明党の創始者として、党の未来像を示し、かつ見守る責任がある」(いずれも『池田会長全集』 1)
 池田は公明党に党籍を持たなかったが、党の人事や政治理念、基本路線を握って、いわば院政的に党幹部
の上に君臨した。とりわけ衆参両院の候補者の選考、党執行機関のメンバーの決定権の掌握は、党幹部の
死命を制する手網として、きわめて有効であった。
 「『A、こんどは参議院に出るか、出てもいいよ。応援してやるから』
 『ハイッ、ありがとうございます』
 会長(池田)の大幹部への接し方はこうだ」(高瀬広居『池田大作』)
 池田が国会議員をも自己の配下と考えたことは、その誕生以来のいきさつ上からも当然だったかもしれない。
 池田は44年1月の幹部大会で、神奈川と埼玉の二、三の公明党員が思い上がった言動をしたと、大いに
立腹し、参加者の面前で罵倒した挙げ句、「前列に座していた大幹部である国会議員数十名(ほぼ同党の国会
議員全員ということになろう)に対し退場しろと怒号すると、議員達全員は退場するわけにもいかず、返す言葉
はむろんなく、ただオロオロと最後尾に退き立って」いた。その後も池田の勘気はとけず、池田が大石寺にいくと
議員達もゾロゾロとついて歩き、泣きながら池田にすがりついたという(藤原弘達『続・創価学会を斬る』)。
 池田にとって重要なのは、議員たちの忠誠心だけであり、国民に責任を持つ彼らの時間の空費は問題とする
にも足りなかった。
 だが、公明党は創価学会に利益ばかりをもたらさなかった。公明党が批判勢力にとどまらず、政治権力を求
めた以上、同党は会員外の票をも集めねばならず、また現実に対応する政治の論理に支配されねばならなか
った。そのことは創価学会の絶対性にはねかえり、創価学会の相対化への道を開いた。
 公明党は39年の結成大会で、綱領の第三項に「言論、思想、信仰の自由」を掲げたが、信教の自由は創価
学会の折伏理論と相容れず、それは教義の相対化にほかならなかった。またその後も、国立戒壇を民衆立と
言い換えるなど、光輝ある公明党の議席増加を維持するため、創価学会は犠牲を払いつつ゛けた。
 それは、看板である公明党が停滞すれば創価学会の威信を傷つけ、公明党の発展のためには創価学会の
教義を相対化しなければならないという堂々めぐりのジレンマであった。


  • [54]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 8月15日(月)21時00分57秒
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創価学会による日本支配計画

 創価学会の政治進出は国立戒壇の建立を大目標としたほか、副次的に、会内の結束、折伏のための下
工作、会内外に対するデモンストレーション、政治権力を用いた優遇、利権の獲得――などを目的として
いた。池田は昭和40年から47年、総本山に建つ正本堂が本門戒壇だとして国立戒壇を否定しはじめたが、
政治権力を握ったうえでの正本堂の国立戒壇への移行を放棄したわけではなかった。池田は信仰上の永
遠の大目標であるべき広宣流布を現実次元に引き下げ、それへの宗教的なアプローチである折伏のほか、
政治権力を握ったうえでの正本堂の国立戒壇への移行を放棄したわけではなかった。池田は信仰上の永
遠の大目標であるべき広宣流布を現実次元に引き下げ、それへの宗教的なアプローチである折伏のほか、
政治権力を握ったうえでの正本堂の国立戒壇への移行を放棄したわけではなかった。池田は信仰上の永
遠の大目標であるべき広宣流布を現実次元に引き下げ、それへの宗教的なアプローチである折伏のほか、
政治権力を獲得しようとする選挙戦を闘うなかで、また公明党がすでに持つ一定の政治権力を利用して、
広宣流布の実現を目指した。いわば宗教的手法と政治的・社会的手法のミックスであり、両手法の相乗・
拡大効果によって、広宣流布を達成しようとした。
 広宣流布とは王仏冥合の実現と同義であり、より具体的には、池田内閣、ないし創価学会による日本支
配を意味した。実現のとき、必然的に日蓮正宗は国教化されようし、その象徴としての国立戒壇なのであっ
た。
 昭和45年の創価学会=公明党による言論抑圧・出版妨害に対する世論の糾弾、その後の宗門支配を目
指した52年路線の失敗による宗門問題の激化、55年の教学部長・原島嵩と顧問弁護士・山崎正友の離反
と批判活動、創価学会脱会者による檀徒と、宗門批判の僧による正信会の批判活動――これらを通して
池田創価学会の力は相対的に弱まり、それに伴って公明党の勢力を減退したばかりか創価学会との間に
矛盾をはらむようにさえ変化しているが、池田が政治権力の掌握を放棄していないという事実に変わりはな
い。たとえ公明党の主な役割が池田創価学会のための政治的防波堤になりさがっているとしても、である。
「われらが政治に関心をもつゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒
壇の建立だけが目的なのである」(戸田『巻頭言集』)
「大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべきどうしても通らなければならない
のが、創価学会の選挙なのでございます」(池田「一致団結、火の玉に」、『聖教新聞』昭和34年5月8日)
 国立戒壇建立を政治進出の大目的に据えたことが、公政連――公明党についていわれる、政策の無さ、
ジグザグ路線など、あらゆる体質を決定した。
 まず、それは初期においては、具体的な政策をたて得ないという政治団体としての致命的な欠陥をもたら
した。創価学会議員たちは一般的な政治構想を用意せずに選ばれたから、現実社会への対策を持たず、
国立戒壇に関係しない通常の議案に無関心を押し通した。そればかりか、その多くが会期中一度も発信せ
ず(できず)、ただ議席を占めてだけいた。
 そのため公政連においては、政治論理を政策に代用することが行われた。
 昭和37年1月7日、公政連は基本要綱、基本政策を発表したが、基本政策は核兵器反対、憲法改悪反
対、公明選挙政界浄化、参議院の自主性確立という四項で、その真っ先に掲げられた核兵器反対が、前述
した戸田の非現実的な「原水爆声明」の繰り返し(「戦争に使用する国々の責任者に対しては、人類の生存
権を否定する悪魔として死刑に処すべきである・・・・・」)だったことはともかくとしても、政策の半分を政治倫
理で間にあわせていた。
 公政連の政治倫理の重視、無政策ぶりをなにより雄弁に物語ったのは、その選挙管理委員会のスローガン「公明選挙」のお株を奪った命名である。
 公明選挙と政界浄化の主張や、派閥抗争と党利党略への攻撃は、誰もが反対できない政治的徳目ではあるが、議案の賛否を問われる創価学会議員たちになに一つ指針を示すものではない。彼らが昭和35年の安保問題に頬かぶりしたのも、議員としての職責を自覚する以上に、安保に重要性を認められなかったからにほかならない。
 後の公明党においても、この政治倫理の過重視は、たとえば46年暮れの沖縄国会で、審議拒否はできないとして(あるいはできないとの名目で)、自民党の単独採決を助け上げ、社公民連合を裏切るなど、依然として尾をひいている。
 政策の無さをいわれることは公政連の存在自体を問われるに等しく、政策の立案は、絶対であるはずの創価学会の政治的立場を限定するという新たな困難を引き起こすが、それを押し切り、是が非でも達成されねばならなかった。
 創価学会の議員は、「公政連では、議員候補を決めるとき、収入を重視した。議員となって生業の時間を奪われても生活していける人だ」(高瀬広居『公明党』)とあるように、多く一般会員より上層の、中小経営者層の出身だったから、公政連は彼らの利益を反映し、また池田の第三文明論に裏つ゛けられて中間政党の要因を持ち、その政策も修正資本主義的な大衆福祉に容易に逢着した。
 昭和38年10月、大衆福祉は公政連の第三回大会で中心的な政策として登場した。が、創価学会=公政連の大衆福祉は、民社党のそれとは別の、独自の政治路線でなければならなかった。
 そのため池田は地球民族主義、新社会主義、人間性社会主義、仏法民主主義といった曖昧な新造語、折衷語を乱作し、痙攣的なまでにその粉飾をこらした。公明党結成時の綱領はこれをなぞって、①王仏冥合と地球民族主義による世界の恒久平和 ②人間性社会主義による大衆福祉の実現 ③仏法民主主義による大衆政党の建設 ④議会民主政治の確立、の四項をうたっていた。
 だが、それにしても創価学会員は政治的にではなく、宗教的に同会出身の候補者に投票して、候補者の公的の如何を問わなかったから、いきおい公約にとどまる公政連=公明党の政策は試練を経ず、たとえば正確な税源を示せない福祉経済案など、粗雑という欠点をまぬがれなかった。
 その政策の多くは緻密な論理や計算によらず、短絡的な論理によって解決をはかるといった点で共通しており、そのよい例が官庁の新設で社会的矛盾を一挙に解決しようとする提案でもあった。
 昭和37年3月、公政連は19項目からなる政策を発表したが、そのうち四項は文化省、科学省、経済統合本部、教育企画本部の各設置の要求であった。
 この、組織さえ作れば、との発想は公明党になってからも見られる、創価学会=公明党の顕著な特質で、このほかにも交通安全省、住宅省、軍縮省などの要求があり、また、東京で米・ソ・中・南北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線などを集めた和平会議を開催するという、池田のベトナム戦争解決策なども場当たり的という面で一脈通ずるものがあった。
 これらはまた、蟹は甲羅に似せて穴を掘る、のたとえどおりの創価学会=公明党の機構信仰の反映でもあった。


  • [52]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 7月30日(土)19時10分1秒
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 広宣流布の手段としての政治

 池田は安保問題のさなかに会長に就任したが、「安保改定よりも、それよりか、もっと本質的に大事な
ことは、邪宗改定である」(『聖教新聞』昭和35年6月4日)と述べて安保への見解の明確化を回避し、
その賛否を会員各自の判断にゆだねた。創価学会の9名の参議院議員たちも、自民党の単独強行採決
に対しては、国会正常化の名目で反対したものの、基本的には安保を傍観した。わずかに会内左翼と
いわれた石田次男が、池田の就任に先立って2月10日、参院本会議で、極東の範囲、海外派兵、条約
の年限、事前協議等について割合まともな質問をしただけであった。
 池田が戸田以来の政治進出を受け継ぎ、さらに強化、拡大する方向に踏み出したのは昭和36年5月
3日の文化局の設置からであった。文化局は池田によって「第三文明」の実行機関と意味つ゛けられた、
政治、経済、教育、言論の四部(のちに学芸部増設)からなる、本格的な政治進出のための中枢機関で
あり、局長には参議院議員辻武寿が任じられた。
 ことにその政治部は、「混乱した日本の政界を浄化するため、学会精神によってはぐくまれた優秀な
政治部員を養成し、日本の政治に正しい方向を示していくとともに、本質的な国立戒壇建立という大業
の必要性を、政界に理解させようというものである」(『聖教新聞』昭和36年5月6日)との記事に明らかな
ように、国立戒壇の建立をむくつけに目ざすものであった。
 同年11月27日、池田は創価学会の外郭政治団体として公明政治連盟(公政連)を発足させ、政党化
へのひそかな布石とした。この少し前、池田は、「創価学会は政党ではない。したがって衆議院にコマを
進めるものではない。あくまでも、参議院、地方議会、政党色があってはならない分野に議員を送るもの
である」(『大白蓮華』昭和36年6月)
 と述べて政党化と衆議院進出を否定していたが、その裏では政党化への基本工作を着々と進めた。
昭和37年1月7日には教学試験を全国いっせいに行い、教学部員を前年の3倍近く11万数千名に激増
させて選挙運動員の確保策とした。また4月2日には『公明新聞』を創刊し、近代政党への外見を整えた。
 参院選後の7月20日、池田は参議院の院内交渉団体・公明会を結成させ、公政連の15議員を無所属
クラブから独立させた。
 続く9月13日、公政連は第一回大会を開催した。この席上、池田は、「もし10年先、20年先、・・・・・大
政治団体になり、皆さん方が一流の名士になって、派閥やそれから反目があるようなことが、もし毛すじで
もあったならば、即座にわが政治連盟は大衆の政治団体ではない、そういう資格はないものとして、解散を
私はすべきであるということを、本日第一回の大会において、言い残しておきたいのであります」
(『公明新聞』昭和37年9月16日)と述べた。
 当時、公政連は政界浄化を「基本政策」の一つに掲げていたから、派閥を非難する当の政治団体に派閥
があってはならなかった。が、この池田発言には、さらに、池田にそむいてはならない、公政連においても
創価学会と同様、池田の宗教的権威が貫徹するという含みが蔵されていた。組織内の派閥や反目は組織
の能率と体面を損ない、また容易にその指導者への批判に転化すると考える池田にとっては、それらは
最大の不正であり、事前にその芽をつまずにはいられなかった。
 公政連は最初から池田に首根っこを押さえられた創価学会の別動隊であった。昭和39年5月3日、第
27回本部総会が開かれたが、池田はここではじめて公明党の結成と、衆議院進出の方針を明らかにした。
「公明政治連盟をば、皆さん方の賛成があるならば、王仏冥合達成のために、また時代の要求、民衆の
要望にこたえて政党にするもよし、衆議院に出すもよし、このようにしたいと思いますけれども、いかがで
ございましょうか(大拍手)。それでは全員の賛同を得ましたので、これをもって決定といたします。
 すなわち、創価学会のなかに文化局があります。文化局のなかに政治部が現在までありました。その政
治部の使命について私は巻頭言で『われらは政党ではない。すなわち創価学会は政党ではない。従って
衆議院にコマを進めるものではない。あくまでも参議院、地方議会、政党色があってはならない分野に議員
を送るものである』という意味の一項目を書いておきました。
 したがって、本日をもって、創価学会の政治部は発展的解消といたしたいと思うのであります。なぜならば、
この十年間、原島委員長を中心として、わが同志である議員は戦い、勉強し、一流の大政治家に育ってま
いりました。恩師戸田先生も時来たらば衆議院へも出よとのご遺訓があったのであります。
 したがって、政治の分野においては、公政連であくまでも自由奔放に戦ってもらいたい」(『聖教新聞』
昭和39年5月5日)
 これは明らかに前の発言に食言するが、池田にとってはそのようなことは問題ではなかった。なぜなら、
彼の大目的は広宣流布=創価王国の建設にあったから、そこに至る手段はどのようなものであれ、有効で
ありさえすれば認めることができたのである。それは文字通りの嘘も方便であり、社会的な通念からの批判
をなに一つ容れない、池田の体質と化したマキャベリズムであった。
 11月17日、東京・両国の日大講堂で公明党の結成大会が開かれ、委員長に原島宏治(昭和39年12月
死亡)、副委員長に辻武寿、書記長に北条浩が任じられた。委員長・原島は結党大会の挨拶で、「きょうは、
この会場にお見えになっておりませんが、池田先生は、この公明党の生みの親であり、育ての親であり、
現在、偉大なるささえとなってくださっております。そして、われわれの将来をじっと見守って下さり、擁護して
下さり、指導して下さっております」(『公明』昭和39年12月号)と述べて、公明党が公政連から引き続き、
池田の指導下にあることを再確認した。
 昭和42年1月29日、公明党は総選挙を迎え、25の議席を得て、初の衆議院進出を果たした。選挙直後
の1月31日、池田は公明党指導部を衆議院中心に切りかえ、委員長に創価学会総務の竹入義勝、書記長
は同副理事長の矢野絢也を指名した。竹入は就任後のインタビューで、「池田会長から申し渡されたばか
りで、正直いって面くらっています」(『毎日新聞』昭和42年2月1日)と答えた。


  • [51]
  • 池田大作「権力者」の構造

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  • 投稿日:2011年 7月27日(水)18時48分48秒
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攻撃から占有へ――戸田継承者としての池田の資質

 戸田の死後、幹部たちは、戸田は聖業の発展のために死んだと公表した。これは戸田の死の拙さを償おうとする強弁に過ぎなかったが、その後の事実は、戸田が創価学会の発展のためには、タイミングよく死んだとはいえるものであった。戸田はすぐれて創見と攻撃の人ではあったが、安定期と占有の人ではなかった。彼の死は、時代にかなった創価学会の陣取りとエスタブリッシュメントへの道をスムーズに開いた。
 池田の資質は戸田の跡を受け、それらの役を担うにふさわしいものがあった。池田が独裁者までにのし上がったのは、基本的には自己増殖する組織の引き継ぎと教義面の支えによるが、かと言って彼の能力と努力を過小に評価することは誤りである。
 池田の戸田からの進展は、攻撃から占有への移行にあり、彼の腐心はつねに創価学会の占める分野の拡大と、そのイメージ・アップに費やされた。彼は戸田に比して創造性には劣るものの、有能な祖述者、管理者ではあり、それは彼の上昇志向と分かちがたく結びついていた。政治、文化面への進出等は広宣流布への投網であったと同時に、彼の劣等感と、世間を見返してやりたいという復讐欲に深く根ざす近代化という同一パターンにおしなべて属するものであった。


  • [50]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 7月26日(火)20時18分20秒
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池田独裁体制の確立

 こうして池田はスムーズに権力の膨大化に進んだが、彼の会長就任にまるで反対の動きがなかったわけではない。
 池田の就任二日後の昭和35年5月5日、元男子部第一部隊の隊長で、蒲田支部幹事の佐倉雅章、大野兼弘は、創価学会員30人ほどを引き抜いて会を割って出、顕徳会という分派を結成した。佐倉は32年の大阪参院補選で、2ヵ月の未決勾留人りするまで創価学会に尽くして、前述のように除名され、その後、復帰を許された会員の一人だったが、池田の会長の就任にまつわるすべてを、「きたない」として創価学会を見限ったのだという(『週刊コウロン』昭和35年7月19日号)。
 池田は佐倉宅に辻武寿、牛田寛、鈴木一弘、竜年光を向けて、彼をおどしたり、すかしたりしたが、5月11日に除名し、また日蓮正宗妙真寺にも意を通じて彼らを破門させ、運動を圧殺した。
 日蓮正宗からの破門は、信者にとって生命を絶たれるに等しかろう。が、池田はそのようなことに頓着なく、創価学会の日蓮正宗支配の威力と、自身の権力を想うがままにふるった。
 このころ大幹部たちは、たとえ池田に不満を持っても、叛旗をひるがえせなかった。彼らは故戸田を畏敬していたから、彼の、「ゆずる会長はひとりでありますが、そのときに、分裂があってはなりませんぞ」という遺訓にしばられたし、また反乱の失敗を思えば、それによって失うものがあまりにも大きすぎることに気つ゛いた。創価学会員の増加と組織機構の拡充は、彼らのパイの分け前を大きくしていた。それは池田の取り分に較べれば小さすぎたが、なんとか彼らの不満を慰めるほどには大きかった。
 しかし、大幹部たちは最初から、池田に絶大な権力を付与することを認めていたのではなかった。会長の権限は年々の発展の中で、池田の自負と欲望、周囲の阿諛追従と盲信に従い、醜悪なまでに肥大化した。それは独裁の制度が必然的に到達する個人崇拝の一大奇観であった。
 例えば昭和37年6月、創価学会規則が改定されたが、その会長に関する規定は、池田をかなり掣肘していた。要点を列記してみよう。
 ①会長は、創価学会の責任役員でもある。
 ②会長は、責任役員の一人であり、理事会によって選出される責任役員により選出される。
 ③会長は、理事会によって罷免されることがある。
 ④会長の任期は4年である。
 ⑤会長は、理事会を召集し、その会議を主宰する。
 池田は理事会で罷免され得、また任期を4年と限られていた。この時点では、池田の権限はまだ歯止めをかけられるほどに穏当であったが、昭和41年5月の規則になると、すでに池田の権力は独裁者のそれに完成する。
 ①会長は、創価学会の責任役員でもある。
 ②会長は、総務を統括する。
 ③会長は、幹部会(内21名が責任役員)を召集する権限をもつ。
 ④会長は、責任役員を任命し罷免する。
 ⑤会長は、副理事長、理事、その他の必要な役員を任命し罷免する。
 ⑥会長の任期は終身とする。
 ⑦会長は、後任を選ぶことができる。
(ホワイト、宗教社会学研究会訳『創価学会レポート』による)
 任期が終身で、後継者まで指名できるとは、宗教が私事であるとはいえ、異常である。まして創価学会は公明党という公事に「一体不二」の関係を有したのである。
 昭和45年1月の規則は、41年の規則とほぼ同様だが、理事長の任免、代表役員等の諸点で、さらに独裁の強度を高めている。
 なお池田は創価学会の登記によれば、昭和38年7月15日、代表役員と責任役員を辞任し、10日間の空白期間を置いて7月26日に再度、代表役員兼責任役員に就いている。また39年5月2日に池田は代表役員を辞任し、翌3日、代表役員は原島宏治にかえられて同年7月16日まで続き、翌17日に池田が代表役員に三度就任している。
 これを創価学会の政変の露呈とする見方があるが、事実は事務手続き上の処置に過ぎなかったという。少なくとも39年5月の辞任は、「任期」4年の規定に従ったという説明がつくであろう。が、38年7月の就任は責任役員空席期の説明がつかない。
 この日、北条浩以下23名の、昭和35年5月以降に就任した新責任役員も退任しており、2日後の7月17日、それ以前に就任した旧責任役員7名が退任する。そして7月26日に彼らの全員が順序を変えて再任される。参考までに新順位(カッコ内は前の順位)を付して次に列挙してみよう。   ①池田大作(8) ②原島宏治(4) ③北条浩(9) ④辻武寿(6) ⑤小泉隆(1) ⑥和泉覚(2) ⑦秋谷城永(16) ⑧柏原ヤス(5) ⑨石田次男(7) ⑩森田一哉(10) ⑪竜年光(11)⑫白木義一郎(15) ⑬山田徹一(22) ⑭白木薫次(3) ⑮小平芳平(12) ⑯鈴木一弘(13)⑰北条雋八(17) ⑱森田悌二(18) ⑲牛田寛(14) ⑳星生務(19) 21田中正一(20)22渋谷邦彦(21) 23吉田顕之助(23) 24多田省吾(24) 25神尾武雄(25)26宮崎正義(26) 27中尾辰義(27) 28中西治雄(28) 29星野義雄(29)30上林繁次郎(30) 31竹入義勝(31) 32藤原行正(新任) 33渡部城克(新任)
 池田をはじめとして原島、北条浩、辻、秋谷、白木義一郎、山田の上位進出が眼につき、逆に小泉、和泉、柏原、石田、白木薫次、小平、鈴木、牛田などは下位に下がっている。おそらく会長、理事長、副理事長といった会の役職の実勢を反映したものだろう。池田体制の確立期は昭和38、9年頃とおさえてまず間違いではないと思われる。




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  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 7月16日(土)20時25分1秒
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権力の王権神授説風脚色

 池田は昭和37(1962)年3月に法華講大講頭、39年4月に、戸田でさえ死後に贈られた法華講総講頭に就いて、本仏・日蓮の宗教的権威を、日蓮正宗の法主を通じて一身に具現したが、この有徳王のはめこみによって、法主よりも上位者、創価学会・日蓮正宗内での最高権力者となった。
 だからこそ、池田は、「諸君は、会長になろうなどという気持ちをもってはならない。なぜかならば、会長という役割を全員が目的にすることは、あまりにも愚かです。会長というのはご仏意なのです」(『池田会長全集』3)と公言出来たのであり、また教授である大幹部に試験を課して、その更迭をほしいままにする権能を授けられたのである。
「教学部長が先日、私に対して『・・・・・いつも試験官である教授全員も、いっぺん試験をしてためしていただきたい』と、このような殊勝な考えをもらして下さいましたもので、私も同じ教授として、涙をのんで許しました。それを、それで会長だけは教授であるけれども試験を受ける必要はないという教授会の決定になりましたもので(笑い)。会長は馬鹿でも脇士がしっかりしておれば、絶対安定であることは仏法の原理でありますから(笑い)。私はやらなくてもいいことを、仏法の上から自覚しております」(『聖教新聞』昭和36年9月2日)
 こうして池田は大幹部、末端を問わず、およそ全員とは比較すべくもない、超越的な権勢を手中におさめた。
 また彼はそれを背景に、さきに述べた入信神話をはじめとする戸田との関係の聖化につとめ、さらに先輩幹部、ことに石田次男の功績を奪って、意地汚いまでに自己の戦歴表に書き加え、ペテンによる理想化によって、彼の権力を王権神授説風に脚色した。
「(昭和25年の暮れ)恩師(戸田)と私と二人きりで、(聖教)新聞作製の構想を練った。その時、恩師はこう言われた。
『おれが社長になる。おまえは副社長でやれ』と。この時を期して聖教新聞は創まったのである』(池田「創刊十周年に寄せる」、『聖教新聞』昭和36年4月22日)
「池田先生は当時(26年)、第四部隊の一班長であったが、信心半年たらずで聖教新聞編集長、男子部隊長となった石田さんに対して、あらゆる面で忠告を与え、進路を示し、あたたかく守っていらっしゃった」(『大百蓮華』昭和38年12月号)
 これらが事実と相違することは、今さらいうまでもない。戸田は側近の誰彼を問わず、同紙の構想を話していたし、池田が副社長だったこともない。同紙の作製は石田を編集長に、森田一哉、岩本他見男、広告部長は原島宏治の編成で出発した。また当時、あらゆる面で石田の下位にいた池田が、石田に「忠告を与え、進路を示」すなどは、あり得ようもなかった。池田は昭和32年においてさえ、まだ、石田を、「信頼出来るといって、これ程立派な人はいない。俺の兄貴だもの」(『聖教新聞』昭和32年10月4日)と、評していたほどである。
 さらに北条浩は『大百蓮華』(昭和39年2月号)の池田の「闘争日誌」に、「(昭和27年)3・26 キリスト教討論」との一項を記しているが、これも事実は、「有名なキリスト教法論で、戸田先生が石田さんを指名されたのも、その実力を買っていらっしゃったゆえであろう」(『大百蓮華』昭和38年12月号)というのが真相で、池田の戦功ではない。
 石田次男のかつての存在は、池田の跡目相続の神性を損なう目の上のタンコブだったから、池田の石田からの収奪は、とりわけ甚だしかった。が、功績の書き替えは石田からにとどまるものではない。
 例えば昭和27年2月、池田は蒲田支部員の折伏を督励して201世帯の折伏を記録し、「2月闘争」という言葉を残した、と自らいう(池田『人間革命』5)が、このとき池田は同支部の一幹事に過ぎず、それも一月に就いたばかりであり、これはとりもなおさず支部長・小泉隆の功績を奪うものである。




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  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 7月10日(日)10時39分18秒
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第5章

 池田大作の独裁体制へ

 約束されていた成功

 生前、戸田は北海道に向かう飛行機の中で、「お前たちの孫の孫の代までの構想は教えてゆくからな」と、言ったという。戸田はそれを教えずに死んだのだろうが、会長についた池田としては、創価学会の構想をことあらためて教わるまでもなかった。池田は戸田が敷設したレールの上を、それまでの惰力を減殺することなく、走ればよかった。戸田亡き後の創価学会の成功は、池田の能力に大きく負うとしても、その成功は基本的には、最初から約束されていた。
 創価学会の政治進出や出版活動、寺院や会館の建設、文化面への進出など、すべての事業活動を可能にする根本は、多数の会員と、やむことのないその増加である。会員の増加が金を集め、販路を開き、人材を供給し、それらを通して、また会員を増加させる。会員が順調に増大しているかぎり、池田の企みはすべて成功し、その会長としての手腕は疑われようがない。
 会員の増加はすべてを可能にするが、重要なことは、それが創価学会の教義に内在化している点である。その意味では、創価学会の一定の成功は、なにも池田の優れた才幹にまつまでもなかった。
 創価学会員の信仰生活にふつう課されたのは、勤行と折伏、『聖教新聞』と『大百蓮華』の購読、座談会や講義への出席、大石寺への登山などだが、そのうち最重要視される任務は折伏であり、折伏が創価学会の自己増殖のメカニズムである。
「今末法においては、日蓮大聖人の仏法たる三大秘法の御本尊を信じたてまつって、題目を唱え折伏行にいそしんでこそ絶対的な幸福境涯を会得し、成仏ができるのである。・・・・・自己の幸福のみを願って信心をしていけばよいというのは、真の仏弟子ではない。また、謗法の者を見ておいて折伏をしなければ、仏法中怨として無間地獄に落ちるのである。・・・・・
 折伏行に邁進するならば、不幸な人々を救う歓喜はもちろんのこと、折伏によって自己の生命力も強められ、永遠に崩れない歓喜にあふれた幸福境涯を建設することが出来るのである。しかも順縁広布の機は熟し、さらにわれわれは勇気をもって折伏に励むべきである。
 これこそが末法の信心であり、折伏なのである」(創価学会教学部遍『折伏教典』)
 いうまでもなく折伏とは会員の獲得、非信者の創価学会員化にほかならず、それは、怠れば無間地獄に落ちるとの威迫によって、ネズミ講と同じ仕組みである。会員は次々と被害者――折伏の責任を負わされるという被害者を作らねばならず、被害者さえ作れば、本人は被害者でなくなる以上に、「生命力も強められ、幸福境涯を建設すること」ができる。だが、ネズミ講では被害者二人を作れば事たりるが、創価学会はそれだけでは満足しない。
 このような折伏をもってすれば、創価学会の急伸も理の当然であり、それは会長の能力、資質、構想のいかんに左右されない原構造であった。
 さらに会員増を支えたものに、創価学会員になることの容易さがある。本尊を幸福製造機とあからさまにいうことに象徴される現世利益の賛美、奨励は、現在の主流の生活信条ともいうべき拝金主義、快楽主義の促進であり、会員はなんら自己変革を要求されることがないばかりか、それまでのためらいながらの欲望、利己心を、野放図に解放することができた。
 そこにあるのは出世主義や体制内での遊泳術、二十日鼠の勤勉主義、個人の損か得か、他人の蹴落としだけであり、社会という視点はまったく欠落する。
「資本家というのは、働らけば働くほど自分の利益になります。労働者は、やはり時間だけ働いて、あとは帰ったほうが得で、おそくまで働いても、直接的には自分には利益はないと、いちおう、こういう立て分けができるのです。しかし、私どもは、いっさい働いたことが、ぜんぶ自分の功徳になるのだと決心するのです。また、事実そうなるのです。それが一念随喜なのです。われわれは資本家と労働者のどちらに味方するわけでもなく、両方ともひっくるめた立場でありますけれども、例として、資本家的な気持ちで、すなわち自分が働いたものが、ぜんぶ自分のためになるのだという信心でなくては損なのです」(池田『池田会長講演集』十一)
 これは労働の論理でなく、仕える論理であり、現代では失望と落胆、うまくいって抜け駆けとスト破りしか結果しないが、個人の利益に密着しているなりに理解しやすく、革新陣営の運動員になることに較べ、創価学会員になることを易しくしていた。
 会員の増加は池田の功績となり、池田体制の安泰を保ち、年と共にその権力をより強固にした。そしてさらに創価学会流の教義解釈が、その池田の地位を超絶性の高みにまで押し上げていた。
 その教義解釈とは仏教説話中の覚徳比丘と有徳王の話のあてはめであり、梗概は、――
 釈迦出現前に、正法を説く覚徳比丘という僧がいたが、邪法の僧に迫害された。時の国王・有徳はこれを聞いて駈けつけ、満身創痍となりながらも覚徳比丘を守った。この功により有徳王は阿閦仏の国に生まれかわって仏の第一の弟子、覚徳比丘は第二の弟子となった。両者の地位が逆転したわけで、のちの有徳王が釈迦、覚徳比丘が迦葉仏になった。
 ――というものである。
 池田はこの説話を自ら、創価学会会長と日蓮正宗法主の関係にあてはめた。
「『正法を説ける覚徳比丘あり、その比丘を守る有徳王あり、この有徳王は邪宗教と戦闘して、全身に芥子ばかりも残らぬほどの傷を受け、最後まで戦いきった」という経文があります。いま創価学会の私どもは、日夜、朝な夕な、不幸の人々を救おうと折伏に励み、また教学に、座談会に、支部結成に、総本山を、日達猊下をお守り申し上げているその精神、その姿、その方程式こそ、有徳王の精神であり、姿であると私は信ずるのであります」(『聖教新聞』昭和36年5月6日)
 池田の話は一気にまくしたてた感じで、文の接続がおかしいが、これを整理していうなら、「覚徳比丘とは、末法今時よりこれを読めば日蓮大聖人の教えを堅く守るものであり、お山の代々の法主上人である。これを守る有徳王とは創価学会会長の立場である」(東京大学法華経研究会『日蓮正宗創価学会』)と、いうことになる。







  • [47]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)13時18分7秒
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 池田の勝利と石田の壊滅的敗北

 5月3日、第22回本部総会で池田の会長就任が挙行された。池田は就任の挨拶で
「創価学会は全大衆の最大の味方であります。敵は邪宗教であります。邪宗教は
人々を地獄に落とす。正法は仏にする」と語りおこし、戸田の7回忌(昭和39年)までに、
300万世帯の達成、世界の名材を使用した大客殿の建立、邪宗教の徹底的粉砕
という三大目標を明らかにした。
 300万世帯は、その時の公称世帯数140万と、それまでの成長率からいえば、
決して難しい数字ではなかった。また「邪宗」攻撃は、300万という目的に関連する、
もっとも効果的な折伏法であった。日本人のシンクレティズムは、つねに他教団の
信者を、自宗の布教の良田にする。それは戸田時代からの引き継ぎであったが、
同時に、敵を外に求めさせ、まだ脆弱な池田体制から眼をそらさせる統治法でもあった。
さらに古来、建造物は目標たり得るものであり、建物と信者増加運動とのイタチごっこ
が教団をふとらせることは、法則的な事実でさえある。
 池田の三大目標という指針はきわめて当を得たものであった。
これを受けて北条浩は次のように会員をアジった。
「4年後に300万世帯を達成すれば、あとは広宣流布の道は開けるのだと、(池田は)
私たちに指示を与えて下さったのであります。こんどは私たち弟子は、池田先生の
第一声を、その宣言を、絶対、無にはしない、絶対、池田先生をウソつきにはしないと
誓って立ち上がるものは、誠の弟子であると私は思うものであります。・・・・・。
 ここで私たちは、池田新会長先生に対して〝先生、どうか私たち弟子がおります。
安心して指揮をとってください〟と心よりお誓いいたそうではありませんか。(拍手)」
(『聖教新聞』昭和35年5月6日)
 北条は一日にして、自らを弟子と呼び変え、池田を会長先生と崇める。他の幹部に
おいても同様だが、ここには一片の人間味もない。運命共同体としての新会長のリアルな
把握がある。彼らが率先して池田を敬えば、池田は安泰なのであり、彼ら自身の権益も
安泰である。利害が彼らを密着させ、表裏のある関係を結ばせ、やがて池田は、幹部の
崇敬の演技を心底からのものにしていく力を蓄えていく。
 この日、例によって機構改革があったが、北条は指導部副部長の任を離れて、新設の
副理事長に就任し、池田の腹心としての地位をかためていた。また理事長・小泉隆は
本部最高顧問タナ上げされ、理事長の職は、指導部長を解かれた原島宏治にとって
かわられた。北条と原島は、池田の会長実現のための最大の功労者だった。
 その他、和泉覚が文化部最高参与に任じられているが、これは次の参院選出馬への
前提と見られる。竜はこの年1月志木支部長に任じられ、ここにきてさらに文化部長
に任命された。それまでの文化部長・鈴木一弘は同副部長に降格されたが、そのかわり
、小平芳平、牛田寛、白木義一郎とならんで理事に任じられた。小平は池田を折伏した、
新興宗教でのいわゆる教化親であり、その理事引き上げは池田の謝意だったろう。
もっともこれ以後、理事はやたらに増員され、その値打ちは下落する一方であったが。
 また指導部長の原島の後任には辻武寿、同副部長の北条の後任には石田次男が
任命された。石田は後輩の後をつがされるという屈辱を受けたが、彼はさらに聖教新聞
とも、論説主幹を除いて完全に断ち切られた。それまで同紙の題字下の発行、編集、
印刷人は石田次男となっていたが、この年7月8日、441号から秋谷城永に変えられている。
これに関する辞令はないが、聖教新聞からの撤退は石田の壊滅的な敗北を物語るものであろう。
彼の母親・石田つかも翌年5月に死亡している。
 昭和56年現在、石田は、横浜・神奈川区の、一階が六畳と四畳半に台所といった小住宅に
万年床を敷き、胃を三分の一切除したにもかかわらず、昼間から焼酎を飲む生活を送っているという。
 石田はのちに参院選に立つことも許されず、池田のために貧窮のどん底に突き落とされることになる。
「戸田先生のもとで、男の秘書は二人いたんです。一人は今(の)石田君。一人は私だったんです。
(略)それで、年配も向うが上。その奥さんになった人も学校の先生で、大先輩です。(略)
うちの奥さんていうのは、自分はバカだと・・・・・皆んな・・・・・しちゃう。これも石田さんの奥さんと
いうのは先生だし、今、50いくつだな。(略)学会全体の焦点であり、優秀な方であった。(略)
石田さんていうのはね、非常に見栄っ張りなんです。気取り屋なんです。人をバカにするんです。
そうじゃない。(ハイ)
 結局だめなんだ、だから。もう戸田先生がいなくなったら、だんだんだんだんおかしくなって
しまって、誰も相手にする者がいない。結局、ちょっとおかしいじゃないか、というように。
20年、18年たった今では、もう、(池田との間には)天地雲泥の差があるんです。利己心、冷たい、
人をせせら笑う。今はダメになってしまっている。自分は頭がいいと思っているから。(略)
 どうしようもない。誰からも相手にされなくなった。もう貧乏のどん底で、子供までが・・・・・
私は一生けんめい応援しておりますけどね、分かる(ハイ)」(昭和51年12月11日、
女子部学生局学内委員長会で、内部文書)
 石田次男は戸田の死後、池田に生殺与奪の包囲網を張られ、徐々に狭められて、ついには
最低限の餌を投げ与えられる飼い殺し状態にされた。戸田時代、石田が戸田に重用されすぎた
という理由だけでである。
 池田の石田に対する敵意の深さには慄然とさせられる。別の内部文書には、「石田次男は20
年間苦しんで、地獄に落ちていくんだ」との発言もあり、創価学会員にとっての「地獄」の持つ意味の
重大さを思い合わさずとも、その長期間、なぶり殺しにして断末魔をみるようなまなざしの冷たさには、
異常な競争心と報復心の激しさ、底深さをみる思いがする。
 5月16日、池田、北条、森田、竜、小平、鈴木、牛田、白木の8名が新たに宗教法人の責任役員に
就任し、ここに責任役員は新8、旧7、計15名となった。翌17日、小泉は代表役員を辞任し、池田が
代表役員についた。これにより池田は、名実ともに創価学会の首長となったのである。



  • [46]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)13時16分5秒
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 なぜ第三代会長たり得たか

 村上重良は、池田が、石田次男、竜年光ら青年部の先輩を抜いて、戸田の後継者になり得た理由をこう述べている。
「池田は、戸田門下生の青年部幹部のなかで、戸田の事業面に誰よりも深く関与していたうえに、教団内の有力者である白木家という背景があった。戸田の死去当時には、すでに5年にわたって参謀室長として青年部を指揮し、創価学会の全行動計画に参画していた。・・・・・こういう実績に加えて、理事・原島宏治の全面的な支持をうけることに成功した結果といえよう」(村上『創価学会=公明党』)
 これらは、①戸田の事業面への関与、②白木家という背景、③理事・原島宏治の支持、④池田個人の才腕、と整理されよう。
 ①戸田の事業面(大蔵商事)への関与は、前に述べた戸田との密着のほかに、創価学会と財界とのつながりという意味があった。
「(池田の会長就任当時は)まだ財界人の学会シンパは少なかったけれども、池田大作はその財界人とつながっていた。戸田前会長のウラの金ズルを池田大作が扱っていたからね」(「雑誌記者が語る公明党出版妨害の手口」、『赤旗』昭和45年3月29日)
 文中の財界人とは塚本総業の塚本清(素山)を指すものと思われる。塚本は翌昭和36年7月、創価学会に顧問制度が新設された際、日蓮正宗法主・細井日達の親戚で、常泉寺の総代でもある平沢益吉とならんで、まっさきに顧問におさまった人物である。
 当時の『聖教新聞』(昭和36年8月2日)は彼を次のように紹介している。
「ひとりは塚本清氏で、信仰年数7年有余(昭和29年の入信か)。恩師戸田先生からも信頼をうけ、その純真な信心と努力によって、現在、日本でも一流の実業家として築きあげてきた人。・・・・・
 両氏は、かねがね会長池田先生も深い信頼をおかれていたもので、このほど学会顧問の重職について、今後、活躍されることになったもの」
 塚本は一般にも黒い噂のたえなかった政商として名高いが、彼は大成建設社長・本間嘉平、富士急行社長・堀内光雄等を折伏し、また大野伴睦や川島正次郎に教えを説き、さらに河野一郎を池田に引き合わせたという(『週刊新潮』昭和40年5月22日号)。
 おそらく戸田と塚本とのつながりのきっかけは、大蔵商事を通してだったろうから、同社の取締役・池田も彼に「深い信頼」を置くほどに親交していたのだ。
 が、のちに池田は金をめぐって塚本を切る。
「塚本総業、あの人もいい人だし、私(池田)も守って来ましたが、川島の子分なんだ。それは困るし、学会の会計はどうなってるのだと入り込んでくる。これは、あぶない人間だと思った。学会を利用しようとしてきた。それではまずい。学会を守るようでいて、ついには食い物にする。最後には、いなおって、学会はどうなっているんだ。会長はどうなっているんだ、藤原君わかっているかと、すごんだ。これでは駄目だ。表でいい顔をして、裏では悪いことをする。(略)
 創価学会があって、塚本があるんではなく、塚本があって、創価学会がある。原島さん等が、くやしがった。
 学会のお金は、仏様のお金だよ。それが、塚本あたりが、どうなっているんだと夜中の二時、三時に私の所に電話してくる資格はない。やくざのようにすごんできた。私がそれを見破って、押し戻せる体制にあったから良かった。私をそうやって、おどかしておいて、女房を早速よこして、先生のお気持を変えてもらうように一生懸命やっていますと言って来て、しばらくして又来る。うまい。千葉の土地の件も利用だ。お山のバスも利用だ。原島理事長も随分、煮湯を飲まされた」(『社長会記録』昭和47年2月4日)
 池田は一時期、塚本から金の運用や情報の利用について学んだと思われる。戸田も事業家ではあったが、いわば街の金融業者、出版業者の域を出ず、戸田晩年時の肥大した会財政には、もう一回り大きな事業上の知識や技術、有力者とのコネ等を必要としたはずだからである。
 創価学会の秘書部長をしていた和泉美代はかつて「池田はおそろしい男だと云った」(同前、昭和43年4月29日)というが、おそらくそれは金や対人関係における池田の非情さをいったものであろう。実際、池田は金に関する会内のエキスパートだった。金集め、金の運用、金の使い方、金にからまる人間関係、どれ一つをとっても池田の右に出るものはなく、おそらく戸田の死後、戸田の事業と創価学会の財務については池田にしか経緯がわからず、解決できなかった事柄も多かったにちがいない。
 塚本以外に有力な財界人との交流がなかった当時、塚本との関係はいわば池田の金扱いの象徴であり、会長をめざす池田の強力な後ろダテになったことは想像に難くない。
  ②白木家という背景は、具体的には理事・白木薫次、本部婦人部常任委員・白木静子、参議院議員、大阪総支部長・白木義一郎(池田の会長就任と同時に理事に昇格)をさし、彼らが石田の家族より要職を占めていたことはいうまでもない。が、あまりに白木薫次の財力を強調することは誤りであろう。彼はとかくいわれるような「実業家」のイメージからはほど遠い、投機的な商品取引会社の常務にすぎなかった。
「昭和29年大阪夕陽ヶ丘会館で総会が行われた折、(白木は)突然先生(戸田)から商売のことをたずねられた。上っている旨答えると、先生は『幾日ぐらい連続で、値幅はどれほど上っているか』と状況を聞かれた先生は『これは白木君売りだね。売り越しても大丈夫だ』と話された。白木さんは早速東京の本社に連絡をとった。その翌日から値は下がり始め捨て値にまで下落したのである。このお蔭で会社はどれほどもうけたかわからないという」(『聖教新聞』昭和34年4月10日)
 ③理事・原島宏治の支持は、後に述べる原島の理事長就任が状況証拠となろう。また池田は『人間革命』5で、昭和26年の戸田の会長就任式の折りのこととして、原山幸一の名で登場する原島に、「あとは、君が健在であってくれさえすれば、それでいいんだよ」と山本(池田)への囁きをいわせてもいる。これらはいずれも池田と原島の結託、池田の原島抱き込みを物語ろう。池田は上長者に対しても、目的に応じて自由に接し方を選ぶことができた。青年将校ばりの突き上げも、好人物のいたわりも、すべて池田のレパートリーのうちにあった。
 原島は蒲田の三羽烏の一人であり、小泉隆を折伏し、小泉は辻武寿を折伏するというように信仰の道では三羽烏の筆頭に立つものだったが、戸田時代には小泉の下風に立っていた。彼は教師をしていたが、子沢山で生活に苦しく、一時期、訪問先の灰皿の吸い殻を吸うくらしをしていたと伝えられる。彼は好人物で、金に転ぶような人柄でなかったといわれるものの、前述のように池田から「おごられた」口であることは事実である。
 ④池田個人の才腕については、青年部における有力幹部の抱きかかえ、石田の孤立化、古参幹部の参議院への追い出しなど、前述したとおりだが、それらは彼の知的能力の高さを例証するものではない。指導者に絶対必要とされる才能は、非凡な知性や高貴な性格、独創性などではなく、「図太さ、神聖な大義に対する狂信的な信念、密接な結合した集団性が重要であることの認識、なかんずく有能な副官の一団に熱烈な献身を呼び起こす能力」(ホッファー)である。
 池田は会長就任前に、何度か『聖教新聞』紙上で人物紹介されているが、石田の紹介文に見られるような、知性に言及した記事を知らない。それらはいずれも、「猛烈な闘志に湧く情熱家」「厳しい反面情理を察して」「親身な指導」(昭和29年1月24日)といった、池田の感性的な側面にふれるものばかりである。
 池田の特性が石田のそれとあざやかな対照を示すのは、前述の小樽問答後の座談会であろう。
 ここでは日蓮宗の日蓮の遺骨と称される霊骨の真偽が問題になり、石田は、日蓮の骨はダビに付されていたが、霊骨は土葬の骨だそうだから偽物だという。
「池田 どっかで埋めたやつを持ってきたんだ、馬の骨か?
 石田 馬じゃ大きすぎる。
 池田 そんなら猫か、きっと猫だ」(『聖教新聞』昭和30年8月7日)
 馬では大きすぎると石田にいわれ、池田は極端に小さい猫に走り、きっと猫だと頭から断定する。池田の論理には、非凡な知性や高貴な性格どころか、一片の知性も高貴さもない。あるのはただ、図太さ、狂信的な確信、厳しい憎悪を抱く能力、一貫性や公正を無視して現れる無限の鉄面皮だけである。
 また当時の最高幹部はこうも語っている。
「池田は頭が悪かった。私が哲学を勉強しろと本を貸しても読み通せない。いつも途中で放り出していた。ただ指導力はあった。人をその気に持っていくのはうまかった」
 池田が大衆運動の指導者=会長に必須の諸特質を持っていたことは疑いをいれない。



  • [45]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)13時14分7秒
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 池田会長就任の虚偽ないし演出

 昭和35年4月22日、池田の第三代会長決定が発表された。
『聖教新聞』同日号によれば、理事長・小泉隆の発議で、「4月9日に緊急理事会が開かれて、小泉理事長から理事全員に対して正式に会長推戴の件がはかられ、全員一致して池田総務にお願いすることに決定した。
 翌11日(?)に、理事室を代表して小泉理事長と原島理事から、総務に会長就任をお願いしたところ、池田総務は『事が重大ですから、1日、2日猶予願いたい』とのご意向であった。翌12日、池田総務から原島理事に、賢く辞退する旨の回答があった」
 その後も再三の懇請と辞退が繰り返され、14日にようやく池田は内諾したのだという。
 が、この、池田が会長就任を承諾するに至るいきさつは、明らかに胡乱な作為が認められる。なぜなら「理事全員に対して」はかられたという以上、理事会に当の理事・池田が出席していたこと、ならびに「全員一致して」とあるかぎり、池田が自身の会長就任になんらかの形で賛意を表したことは明白だからである(創価学会規則は、「理事はその理事の特別利害関係のある事項については議決権を有しない」と定めていたが、この場合の「理事」とは、「責任役員を理事と云う」とあるように責任役員を指し、責任役員ではなかった池田には適用されない。もっともその準用は十分考えられるが、そうなれば但し書き――「この場合においては特別の利害関係を有する理事を除いた役員会において、特別の利害関係の員数だけ会員の中から仮理事を選任しなければならない」――も準用されねばならず、池田の息のかかったものを仮理事とすることは可能である)。
 ところが池田は数度の懇請にもかかわらず、辞退に固執したのだという。
 これは自家撞着であり、この経緯全体の信憑性を疑わせて十分である。
 央忠邦『日本の潮流』は、「偶然入手した非公開の複写した資料」に基つ゛き、池田を会長に決定した会議を理事会ではなく、部長会としている。部長会なら辻褄が合うかもしれない(しかし、「各部を統括する」総務・池田は部長会のメンバーではなかったのだろうか、甚だ疑問である)が、会長の決定は創価学会の最高基本方針に属する事柄であるから、理事会での発議が正しい手順であること、部長会を理事会と変えて発表しなければならぬ必然性がなに一つ認められないこと、池田との折衝にあたったのが理事長であること、発表時の早期性、といった諸点から、聖教新聞の矛盾を解消するものとは認められない。
 前年の機構改革が実質的な池田体制の発足であった以上、池田がこの期におよんで、会長の職を辞退するいわれはなにもなかった。にもかかわらず、なぜこうした虚偽ないし演出が行われねばならなかったのか。
 まず、高位の地位を進んでは受けないという一般的な習慣である。宗教の世界では、なおさらその手の儀式は尊重されよう。熾烈に会長の地位を望み、その獲得のために激しく、また陰険に闘ってきた池田であっても、あるいはそのような池田であるからこそ、待ってましたとばかりに就任するわけにはいくまい。
 いわば八百長の辞退であり、それは創価学会では、戸田の前例でさらに強調されていた。戸田が会長就任時に、「必ず、つぎに会長になる宿命を持つと予見していたが、どうしても、いやであった。・・・・・会長だけはぜったいやるまいと思っていた」(戸田『講演集』上)と表現して以来、会長とは喜んで就くべき地位ではないとの固定観念が支配的だったのである。
 ついで、池田以外に会長に就くべき人材がなく、彼の就任は幹部の総意に基つ゛くという印象を会内外に与える必要があった。このことは池田以外の、会長への野心を持たなかった幹部達の利害と相容れないものではなく、彼らがさきの虚偽ないし演出に手を貸したのは当然である。また、そのことがひいては池田の謙虚さ、身の栄達を望まぬ高潔な人格をいう理由にもなる。
 こうして池田は32歳の若さで第三代会長への就任を決めた。





  • [44]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)13時12分46秒
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 第三文明と三国志の思想

 池田以下4名の理事就任は、理事と責任役員が同一メンバーであるという前例を破って、宗教法人の責任役員への就任を意味しなかった。彼らの就任は1年後であり、この時点での登記面の変化は、7月17日に小泉が代表役員代務者を辞任して、正式に代表役員となったことである。
 秋谷栄之助(城永)の「会長と代表役員は同一人で、それは学会成立後変わっていません」という言葉(『現代』昭和45年5月号、村上兵衛「池田会長就任までの権力抗争と終身会長制への疑問」)を適用するなら、ここに小泉隆が第3代会長に就任したとみなざるを得ない。池田らの責任役員不就任とともに、外部からはうかがい得ない不可解なできごとである。
 当時、小泉隆が第3代におさまるという噂があったが、それを裏付ける暫定措置――小泉の実権がかたまり次第、外部に発表される――でもあったのだろうか。そうとするなら、池田の覇権確立は小泉の意を体したものになり、1年後に池田が小泉に叛旗をひるがえしたことになる。この論拠は、さきの席順における理事長――総務の位置が、戸田時代の会長――理事長の構造をなぞっていることに求められるかもしれない。
 しかし、今、この説はとらない。人事の真相は、32年に改定された創価学会規則の、責任役員7名という規定を盾にとった、一部旧理事陣の抵抗の一環をなすものであったろう。規則は改定可能だったが、彼らは在来の7名の理事で定員は一杯であるとして、池田らの就任を拒み、せめて法規面の地位だけは確保しようとした。同様に小泉を代表役員に立てて、池田に一本釘をさしたつもりでいたのではなかったのか。
 また小泉の代表役員就任の2日前、創価学会の目的に、出版事業と幼稚園経営が加わっている。登記面には、「目的達成に資するため出版事業を行い、並びに幼稚園を設置し、これを管理する。幼稚園は東京都大田区本蒲田五丁目十一番地に置き、これを『新宿幼稚園』と称する」とある。
 幼稚園経営は翌々36年5月10日に抹消されており、おそらく計画倒れに終わったのだろうが、計画自体が創価学会の戦闘性に似つかわしくない気がする。この年末の公称世帯数は約141万世帯で、成長率は23%と前年よりさらに落ち込んでいる。あるいは実数が幼稚園経営という弱気に出ざるを得なかったような劣悪なものだったかもしれない。
 7月3日、池田は男子部幹部会で、「第三文明」を提起した。
「学会は資本主義でもなければ――資本主義でないということはないが――自民党思想でもなく社会党思想でもない。いま必要なのは第三文明です。・・・・・精神文明の世の中も、また物質文明の世の中ももの足らぬ。どうしても全民衆の根底からの欲求というものは、物でもなく、心でもない。・・・・・色心不二の哲学が必要な時代である。最高の文化が広宣流布であると会長先生が仰せになったこともあります。最高の文化とは何か、第三文明です。これがこの文明なんです。カビの生えたような、偏
頗な文明ではないのです、ゆえに、思想的にいっても、共産思想、自民党みたいな片寄った思想ではない。いまだかつてない、全人類が根底から要求しているところの、〝新社会主義〟こそ、王仏瞑号の思想であると、わたくしは信ずるんでございます・・・・・」(『聖教新聞』昭和34年7月10日)
この粗雑、曖昧な第三文明論が創価学会の政治進出のための基本理念となった。論旨は、自民党と社会党の否定=資本主義と社会主義の否定ということにつきようが、この発想の原形は『三国志』にあったといって過言ではない。
「池田総務は『日本をみれば自民党、社会党、創価学会の三国志なんだ。共産党なんか問題でない。世界もまた三国志である。・・・・・』と、おっしゃっている」(『聖教新聞』昭和35年1月1日)
 この『三国志』の思想こそ、公明党の、キャスティング・ボートを握ったうえでの駆け引きのうまさ、政策のなさ、無定見、ジグザグ路線等をもっとよく説明するものである。が、それを派閥抗争にはともかく、政治に持ち込むお粗末さは、言論弾圧事件で、「問題でない」はずの共産党にしてやられ、電話盗聴で報復しようとしたものの、今また裁判に訴えられていることからも明らかであろう。
 が、要は池田の造語能力にあった。創価学会にあっては、一見新しそうなことをいえば、内容がどのように陳腐であろうと、それで通用する。第三文明、新社会主義といった似而非ジャーナリスティックなセンスは池田以外になかった。池田だけが戸田の「地球民族主義」の衣鉢をついだのである。
 10月30日、聖教新聞に論説室が設けられ、主幹に石田次男、論説委員に北条、牛田、秋谷、多田が任命された。石田の担当していた社説は彼らに分割され、石田の地位は、聖教新聞においても低下する一方であった。
 11月、日蓮正宗の法主・堀米日淳は病死し、細井日達が第66世法主となった。細井は、前述のように戸田ともっとも近しく、創価学会派の僧侶だったが、多少の振幅はあったものの、昭和45年ころから創価学会の傀儡であることをやめ、抵抗を強めて今日の批判派僧侶、檀徒活動の基盤をつくった。



  • [43]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)13時10分58秒
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 池田体制の発足

 昭和34年6月30日、選挙結果をもとに、組織機構が大きく変えられた。まず池田、北条浩、森田一哉、竜年光の4名が青年部参謀室を離れて理事に就任し、理事は計11名となった。青年部は、参議院議員になった青年部長・牛田寛ではなく、参謀室長の池田を鋭角に結集されて政権交代グループと化し、池田が参謀室の下僚3名を引き連れて、理事室入りしたわけである。
 また池田が前年来つとめてきた総務の権限は、ここにきてはじめて、「理事長のもとに、理事室を代表して、事務局及び各部を統括する」と規定された。新任の理事が理事室を代表するというのは驚くべき人事だが、これは別掲図表と、次の「大幹部席順」に明らかなように、実質的な池田体制の発足にほかならなかった。

 大幹部席順
1、理事長
2、総務
3、理事
4、本部婦人部最高顧問
5、部長
6、青年部参謀
7、男子女子両部長
8、総支部長
9、副部長
10、本部指導部員
11、文化部参与
12、副総支部長
13、支部長
14、総支部幹事
15、副支部長
16、本部常任委員
17、本部婦人部顧問
18、総支部婦人部長
19、支部婦人部長
20、男子、女子両企画室
21、地方青年部参謀

別掲図表
創価学会本部機構
 (昭和34年6月30日当時)

理事長:小泉隆
理事室:小泉隆、和泉覚、白木薫次、原島宏治、柏原ヤス、辻武寿、
    石田次男、池田大作、北条浩、森田一哉、竜年光
総務:池田大作
事務局:局長=北条浩、次長=森田一哉
指導部:部長=原島宏治
企画部:部長=森田一哉
監査部:部長=竜年光
統監部:部長=牛田寛
財務部:部長=森田悌二
文化部:部長=鈴木一弘 参与:
教学部:部長=小平芳平
学生部:部長=渋谷邦彦
青年部:部長=秋谷城永、男子部:部長=多田省吾、女子部:部長=湊時子、参謀室:主任参謀=吉田顕之助
婦人部:部長=柏原ヤス
聖教新聞編集部:部長=秋谷城永
大百蓮華編集部:部長=多田省吾
出版部:部長=中西治雄
経理部:部長=北条浩
登山部:部長=星野義雄
庶務部:部長=和泉美代



 つぎに本部の計18部は二分され、事務関係を扱う6部――庶務、登山(新設)、経理(新設)、出版、大百蓮華編集、聖教新聞編集の各部――は事務局に統一され、事務局長に北条浩、同次長に森田一哉が任じられた。
 これにより、事務局は青年部出身者に完全に掌握されたが、同じことは事務局下の各部についてもいい得る。庶務部長・和泉美代を除いて、各部の部長はすべて青年部出身者によって占められた。
 登山部長は前男子部第4部隊長・星野義雄、経理部長に北条(事務局長兼任)、出版部長に前男子部第3部隊長・中西治雄、大百蓮華編集部長に前男子部第5部隊長・多田省吾、聖教新聞編集部長に前男子部長・秋谷城永が、それぞれ任命されている。
 また事務局下以外の12部においても、新設の企画部長に森田(事務局次長兼任)、監査部長に竜、青年部長に秋谷が就任したほか、指導部副部長に北条、学生部副部長に男子部第44部隊長・渡部城克(本名は一郎)が任じられて、おのおの部長・原島宏治、渋谷邦彦を補佐することになるなど、12部の過半を青年部出身者が制圧した。
 この組織改革は、前青年部員でなければ人にあらずといった勢いの青年部の過重視であり、戸田の組織論の主眼である青年部育成をトッコにとって、極端に誇張した人事というべきものであった。前掲の席順を29年の席次と比較すれば、青年部、ことに参謀室の偏重はさらに明白で29年では本部婦人部常任委員の下に位した(この席順においては第16位の本部常任委員の次に相当する)男女両部長、参謀室が支部長ばかりか、総支部長をも凌駕して、順序を逆にしたうえで第6、7位にランクされているのである。

このことは総務・池田の権限規定が、青年部のクーデターに等しい内容の一大キャンペーンのもとに強行されたことを推測させる。池田は自身の異常な覇権確立の根拠を、青年部による代替わりに求めるほか、方途がなかったのだ。参院選から機構改革に至る池田の動きは、まさに水際だったとしか、いいようがない。
 前青年部員の要職占拠により、古参幹部は後退し、古参幹部に繰り入れられた石田も後退した。石田は聖教新聞編集部長の職を秋谷に追われ、実権のない主幹にタナ上げされた。また彼の妻・栄子は青年部参謀から本部婦人部常任委員に移され、彼の母・つかも婦人部長を柏原ヤスに譲り、婦人部最高顧問に祭りあげられねばならなかった。石田家におけるわずかな昇進は、弟・幸四郎の男子部企画室任命だけであった。
 この人事異動は全体に降職がなく、降職を意図する場合には、名のみあって実のない顧問等に据えるなど、穏便な策がとられた。これは微罰のときを除いて、創価学会の大幹部に対する伝統的な定式である。なお、このとき渉外部は廃され、従来の指導監査部は指導部と監査部に二分され、また東北、埼玉、中部、中国の4総支部と16支部が新たに設けられている。
 監査部長に任じられた竜は「組織改革の意義」と題して、新組織の保守を得々と弁じたてた。
「わたくしはただいま監査部長の命をうけました。(故)会長先生の教えの〝戸田先生の生命より大事な〟この創価学会を、いつまでも若々しく永遠に力強くするために、少しでも虫がつかないように、くさらせないように、身命をとして守るつもりでございますので、皆様のご協力を切にお願いいたします」(『聖教新聞』昭和34年7月3日)
 竜は「検察長」との異名をとる攻撃型のタイプで、池田体制擁護のための監査部長にはうってつけだった。当時、彼はいわば池田に謀られ、昔の上長だったことを忘れて、その下位に立つ忠良な盟友だったが、のちに池田に袖にされた。彼もまた池田のための哀れな手駒だったのである。






  • [42]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)13時09分7秒
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 池田における選挙の意義

『週刊朝日』昭和34年6月21日号の「参議院を折伏せん」は創価学会の参院選全員当選を特集して、同会を動かす3人の「中心的実力者」――小泉、石田、池田――にふれている。石田はこれを、6月本部幹部会での講演『ジャーナリズムの偏見』の中で、「地道ではありますが学会をよく調べて豊富な内外の資料をそろえ、あまり感情的な要素はなく、当然のこととして公正な中正な報道になっております」と評価している。
 同特集記事は当時の石田評、池田評を知る格好の材料である。
「石田次男=6人の理事の内で、最年少34歳。こんどの全国区で第5位、66万の票を集めた。秋田県大館中、芝浦高専卒。学校を出て、ぶらぶらしているうちに、母(現創価学会婦人部長)の影響で入信。九州方面の折伏に大きな成果をあげ、現在、機関紙聖教新聞の編集長。社説は、かれが執筆。戦闘的であり、信仰面の中心人物と見られている。
 池田大作=もと渉外部長。戸田の死後、新設された総務に就任。同時に、参謀室長を兼任している。31歳。戸田の関係していた会社に働いていたので、会長からはかわいがられた。政党でいえば、〝書記長〟格であり、こんどの選挙の総指揮をとった。かれの下に男子4人(実際は3人)、女子2人の参謀がいて、いろいろ作戦をねるが、みな30歳前後の人たちばかり。こんど、品川区から都議に出た竜年光も、この参謀の一人である」
 4月、統一地方選が行われ、創価学会は当選率90%以上という好成績をおさめた。すなわち、都議では11名が立候補して、竜年光ら3名が当選した。前都議の小泉隆は理事長に手一杯で立たなかった。道府県議選では4名が立って3名、五大市議選では7名が立ち、全員が当選した。また地方市議選では208名が立って185名、東京都特別区議選では竹入義勝、藤原行正、今泉太郎、大川清幸など、立候補者74名の全員が当選した。
 つつ゛く参院選を控えた5月3日、第20回春季総会で、池田は、「大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべきどうしても通らなければならないのが、創価学会の選挙なのでございます。・・・・・
 地方選挙では非常な成績をあげましたが『勝ってカブトの緒をしめよ』いよいよ峻厳なる信心をもととしてそうしてきたるべき参院選におきましては一致団結、火の玉になって、勝って、(故)会長先生におこたえしようではありませんか」(『聖教新聞』昭和34年5月8日)
 と、演説した。
 池田は主に二つの理由から、会員を煽って参院選を成功させねばならなかった。一つは、彼自身の功績を作るためであった。選挙戦での勝利は、その指揮者としての池田の手腕の証明と見られたが、それは会長就任への彼の持参金になると同時に、いずれ彼のものになるはずの組織を強化、安定させる、前もって行う投資でもあった。
 第二は、理事や、池田と競争関係にあって池田より上位にある若手幹部、ことに石田を追い出すためであった。参議院議員の職務は、その重要性と多忙を理由に、会の要職を剥奪するには十分なものがあろう。
 議員になるか、ならぬかは、幹部の値打ちの一般化と特殊化の分かれ道であった。議員となれば、創価学会内にとどまらず、社会的な尊敬の対象になり得る。これに反して池田は総務という創価学会での特殊化を深めたが、実はそれが長期的には、一般化への道であった。
 彼はのちに実権を確保した段階で、猿は木から落ちても猿だが、議員は選挙に落ちれば議員ではない、という言葉以上のことを、任期切れの幹部たちに適用した。すなわち、前議員を再び立てる立てないを彼の一存で決め、彼はそのことを幹部の賞罰の具、彼への忠誠の足枷、彼の握る生殺与奪の権としたのである。
 6月の参院選の結果はあらゆる意味で、池田の完勝であった。
 全国区から立った石田次男は66万票を得て第5位、船場支部長・中尾辰義は14位、教学部長・小平芳平は15位、理事・原島宏治は19位、青年部長・牛田寛は24位と、それぞれ上位当選をとげ、全国区での得票総数は約248万8,000票、公称会員世帯の2.32倍を集めた。
 一方、東京地方区から立った柏原ヤスは第1位で当選を決め、藤原弘達をして、「柏原なんかを出したのは都民の屈辱だ」と言わしめた。前回、白木義一郎を当選させた大阪地方区では候補を立てなかった。候補者難というより2年前の補選で小泉、池田以下が公選法違反に問われ、池田は裁判が進行中で、大阪に触れたくなかったのであろう。
 石田の会当選者中での首位当選は、九州を中心とする彼の人望の反映であったが、また彼だけは落とすまいとする池田の執念の成果でもあったと見られる。
 こうして創価学会からの参院選立候補者のすべてが当選して、理事7名のうち4名が参議院議員、残るところは38年に再び都議に立つ小泉隆、次回37年の参院選に出る和泉覚、政界に資質的に意欲のない白木薫次だけとなった。
 統一地方選、参院選での創価学会の勝利は、同会の衰退を予想していた人々の期待を裏切り、戸田死後の同会の危機乗り越えと定着を会内外に示した。






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  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)13時05分58秒
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 戸田城聖と石田の母

 石田の家族はほぼ全員が創価学会の幹部だった。母親・つかは本部婦人部長、妻・栄子は青年部参謀、妹・明子は元女子部第三部隊長で秋谷城永の妻、弟・幸四郎は男子部第47部隊長(のちに、公明党委員長)である。だが、彼らは閥をつくるには非力で、単に有力な家系にとどまっていた。
 石田自身の権力はいうまでもなく強大で、また若くして、中島治雄と田島文枝、中村慶和と森本滋子の媒酌を行うなど、信望にも欠けていなかったが、彼は無欲で生真面目に過ぎたし、彼の信仰は強固で、外に対して戦闘的だったが、内部の権謀術数には一本調子で、よく耐えるものではなかった。
 このような石田の人柄のよって来る由縁は、彼の生まれと昇進のしかたに求められるかもしれない。
 石田の家は秋田県鹿角郡の旧家で、高額納税者だったが、戦後、どのような理由によるものか、一家は上京し、小岩にアパートを経営した。その一室に和泉覚夫妻もいた関係で、一家で最初に入信した母親・つかは、入信前から戸田のことを聞き知っていた。
 つかは戸田の一周忌法要で、入信当時の追憶談を語っている。聖教新聞にはまれな、味のある話と思われるので、やや長くなるが引用してみよう。
「はじめて私が先生(戸田)にお話したのは、25年の秋ころと思います。先生が一時、理事長を辞されておられましたが、私は先生ほどの方がなぜ事業に失敗なさったか、どうして理事長を辞退されたのか、それをお聞きしたくてしようがありませんでした。
 ときどき先生がお酒を飲んでおられるのを見かけていましたので私は自分の常識で判断しまして、いくら先生でも、あんなにお酒を召し上がるから、頭の具合でも悪いんじゃないかと思ったのでございます。(笑)それで、ぜひ先生に大酒をよして頂き、もう一度理事長の席につかれ、学会の指揮をとって頂きたい、といつも思っていたのです。
 ある日、先生が私のアパートにいられた和泉先生の処へみえたので、絶好のチャンスと帰られるとき玄関で呼び止めまして『お酒を召し上がっていますか』とお聞きしました。先生はあっさり『ああ飲んでおりますよ』とおっしゃったのでがっかりしたんです(笑)。
『もう酒どころじゃないよ』といって頂きたかったんです。そこで私は、お酒を飲んではいけませんよという意味のことを申し上げたんです。
 ところが先生はただお笑いになって、それにはなにも答えて下さいませんで『私もネ、いままで自分のことにかまっていましたけれども、これからは本当に困っている人の味方になっていくつもりですよ』と、こうしみじみおっしゃったのです。
 そうして『あなたも弱くては大変ですね』(つかは結核を病んでいた)といわれ、お数珠をもって、私の首から背中をさすって下さった。私はお話をするのもはじめてですので『もう先生結構でございます』(笑)とただ恐縮しておりました。あとで思いますと、先生は、ご祈念をして下さったのだなあと思いました。
 そのときは、まだなにかいいたりなかったように思いまして、こんどはお手紙をさしあげたんです。先生はお酒のことにはなにもふれず信心の面でお答え下さいました。(手紙の内容略)
 それからほど過ぎてから先生が『奥さん、あんたはまあ正直でいいよ、酒をのむななどといったのは、あなたばかりだ』とおっしゃって下さいました。『あんたもね、もういつまでも、オツにすましていないで、ぼくたちの仲間に入んなさいよ』と、こうおっしゃって下さったんです。
 このことがあって、私も先生のお側近くでいろいろとご指導うけるようになりました。焼鳥の味をおぼえたのもそれからでございます。(笑)女というものは、ああいう処へ入って食べるもんだと思っておりませんでしたが、先生が目黒駅の焼鳥屋によくお寄りになって、「まあ、奥さん食べなさいよ』とおっしゃって下さる。柏原(ヤス)先生など、よく召し上がっていらっしゃったようです。(笑)それに子供たちの結婚についても、いろいろとご心配をいただきました。
 大幹部の方々が、よく先生にしかられていらっしゃったのですが(笑)そこで私も、一度涙の出るほどしかられてみたいと思いました。先生は私なんか当にしていらっしゃらないんだなあと、ちょっと情なく思っていたのです。でもしかられる時期が来たのでございます。あの参院選のときでした。柏原先生を落したということで、まあ先生にしかられ通し。あのときほど会長室のドアーの重かったことはございません。(以下略)」(『聖教新聞』昭和34年4月10日)
 戸田は、つかの世間慣れしていない親切に自分の住む世界とは別の、好意的な物珍しさを感じ、彼女にかわいい女を見ていたのかも知れない。写真で見るかぎり、往年の明眸皓歯といったおもかげがある。組織家として別段優れていそうもない彼女を、理事のすぐ次席の本部婦人部長につけたのも、戸田の彼女へのほのかな感情のせいだったとも考えられよう。戸田はすぐれた指導者ではあったが、その人事に、気まぐれや思いつきが混入すること皆無というわけではなかった。
 また戸田は石田をも息子のような気持ちで見ていたのではなかったのか。石田は優秀な幹部に違いなかったが、そのめざましい昇進に母親の存在がまるで無関係だったとはいえまい。が、むしろ逆に、母親の存在が石田の野心を損ない、彼を自足させたというマイナス面の方が大きかったかも知れない。少なくとも石田は池田のような人間関係の飢餓状態にはなかった。
 石田は少年時、池田とちがって級長、副級長をつとめ、秋田県大館中学、芝浦高専へと進んだが、学校を出ても就職しようとはせず、毎日、江戸川区平井の加藤六段道場で将棋をさしていた。母の信心には反対し、折伏にきた和泉夫妻を追い返したこともあった。
 が、昭和25年11月に自らも入信し、一週間後に戸田と会った。戸田は一度会ったきりの石田に見込むところがあったのだろう、翌26年3月に突然、彼を呼び出し、聖教新聞の編集をまかせた。以後、石田の信仰と出世は聖教新聞とともに進んだ。今日400万部を発行し、三大紙に迫る同紙の基本はすべて石田によって作られた。彼は出世を渇望しなかったが、よき理解者だった戸田の引きで、幹部間随一の昇進を遂げた。
 『御書』初版が発行されたとき、戸田は、
   夫婦して 御書つくらんと 生れきし
    700年の 今日ぞうれしき
 との歌を石田夫妻に贈った。また彼を九州総支部長に登用する前、①人間が甘くて何の話でも信用する ②性の悪い人、良い人の見分けがつかぬ ③計画にとらわれて先輩に相談しない、という三点を指摘し、彼を叱ったという(『聖教新聞』昭和30年1月1日、昭和34年5月14日)。が、戸田が、こうした間の抜けたとはいえ、一面では人の良さをも物語る欠点を持つ石田を愛し、重用したことは、彼の青年部主任参謀、小岩支部長、理事、九州総支部長といった経歴がなにより雄弁に証している。
 かりに戸田が今すこし永らえていたなら、はたの者がどのように非難しようと、石田を後継者に指名しただろう。そして石田が会長になっていたなら、創価学会は華々しさに欠けても、いかにも宗教らしく発展しただろうし、電話盗聴や替玉投票、出版妨害などを少なくとも引き起こすことなく、世間の風当たりも弱まっていたにちがいない。
 が、戸田の死後、彼の重用がすぎたために、石田の庇護者はなく、また彼には池田の持つ粗野なまでの自己主張も野心もマキャベリズムも乏しかった。



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  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)13時04分19秒
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 戸田城聖の選挙観

 昭和34(1959)年1月16日、石田次男は文化部員に任命されたが、それは石田の、参議院議員選挙への出馬と、前線からの離脱――無力な名誉集団への繰り入れを意味した。彼は早くもこの時点で会長候補としての資格を失ったのである。
 創価学会における選挙は、国立戒壇建立のための政治進出とは別に、国費による折伏活動をも目的としていた。戸田は参院選初進出を前にした31年3月に、組織と選挙との関係を次のように定式化している。
「学会で選挙をやるなどということは、まことに、りっぱなことだと、私は思っているのです。陰でこそこそやるなどということは、絶対にする必要はありませんよ。・・・・・
 私は選挙運動が毎年あったらいいと思っているのですよ。ないから残念です。そのわけは、選挙をやるという一つの目的をたてると、みな応援する気になります。そこでしっかりと信心させなければならん。学会は、金で選挙に出させるのではないから、はじめから信心によるのですから、信心の指導をしっかりやらなければならん。そうすると、幹部が夢中になって、班長君でも地区部長君でも、信心の指導を真剣にやってくれると思うのです。
 そうすると、いままでかせがない人が、広宣流布のために、これは立ってやらなければならん時がきたから、まあ皆、目の色変えてかせぐ。ふだんやらんことをやるから、支部がピーンとしまってくる。選挙は、支部や学会の信心をしめるために使える。まことに、これは、けっこうなことではないですか」(戸田『講演集』下)
 組織引き締めの為の選挙という戸田の着眼は、悪利用との非難はまぬがれまいが、それなりに秀抜であった。現に池田が逮捕された32年の大阪参院補選を、当選の可能性がないにもかかわらず強行したのは、弱体化した大阪各支部へのテコ入れ策だったという見方もある。
 創価学会がこの昭和34年に、会員を立候補させる統一地方選挙と参院選挙を二つながら迎えたことは同会の存続にとって願ってもない幸いであった。選挙への総力結集こそ、戸田死後の組織危機を乗り切る最大の鍵であったのだ。
 しかし、組織引き締めの手段である参院選に、石田が起用されるいわれはなに一つなかった。彼の器は、参議院議員という一部門の手駒ではなく、それらすべてを掌握する第三代会長にふさわしいものであったはずである。
 彼が参院選への立候補を受け入れたことは、会長就任への権利放棄にほかならなかった。
 石田はあまりに戸田にかわいがられ、彼の下で出世しすぎていたのかもしれない。彼が29年に原島宏治や和泉覚、森田悌二、辻武寿等の先輩を飛び越えて理事に就任したことは、決して彼らの好感するところではなかっただろう。また彼の早すぎる出世は青年部からの断絶を彼にやむなくさせてもいた。戸田の死後、彼は彼を強力に擁護する同僚も、熱心に押し立てる部門をも失っていた。








  • [39]
  • 池田大作「権力者」の構造

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  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)13時02分31秒
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 池田の抬頭と石田の地盤沈下

 昭和33年5月3日、第18回春季総会で理事長・小泉隆は、会長職は当分置かない、戸田がつくったレールの上を、脱線しないように創価学会という列車を走らせていくのが我々のつとめだ、と演説した。
 この日、小泉は蒲田支部長と台東区総ブロック長を辞任し、理事長一本に専念することになり、また戸田の死で一人欠けた理事は和泉覚の就任で補われた(宗教法人の登記面では、戸田が死んだ4月2日、ただちに小泉が創価学会の代表役員代務者になり、4月12日に和泉覚が責任役員についている)。これで同会の理事は、理事長・小泉のほか、白木薫次、原島宏治、柏原ヤス、辻武寿、石田次男、和泉の計7名になった(登記面の責任役員も同様メンバー)。蒲田支部長の小泉の後任には白木薫次が据えられた。
 6月30日、本部幹部会の席で、総務、庶務部、出版部の新設が発表され、総務には池田が渉外部長を解任されたうえで任命された。
 総務の役職は創価学会規則になく、その権限はなんら新しく規定もされず、一年間、無規定で通しつつ゛けられた。が、それは大体、青年部の参謀室長を本部に格上げしたもの、政党でいえば書記長格といった程度には漠然と諒解されていたようである。
 庶務部はそれまでの秘書部の改称で、部長には秘書部長・和泉美代が留任した。出版部長には森田一哉が、渉外部長の後任には辻武寿がそれぞれ任じられた。
 この人事は全体として青年部の試験的登用で、まだ池田の会長就任への布石といったものではなかったが、たしかに池田の重用ではあった。総務に要求される活力と事務能力は池田のタレントであり、また小泉は、前年公選法違反でともに臭い飯を食った仲という、池田に対する親近感を持ち、それらが相まって池田を総務に押し上げたのだろう。
 池田は総務となっても、青年部参謀室長の役を手放そうとはしなかった。強大化した青年部こそ、彼の唯一の切札であることを熟知していたからである。彼は参謀室を重点に、青年部の完全掌握に歩を進めた。その中には石田の義弟である男子部長・秋谷城永も含まれていた。青年部の力を背景にすれば、池田の発言権は飛躍的に強化され、全組織への攻略もたやすい。彼の戦略は大宅壮一のいうスターリンではなく、三国志から学ばられたが、三国志は派閥操作には依然として有効であった。
 池田は一方、与えられた総務の職をもフルに活用した。彼は集団指導体制の間隙をぬって全国の組織を小マメに動き、しきりに自分の顔と名を売り歩いた。
池田だけが会長空席期を、会長着任をめざす事前運動の期間ととらえ、野心的に動きまわった。他の幹部たちは、「会長は当分置かない」「われわれで、会長になりたいなどと考えているものは、それこそ一人もいない」などの小泉や原島の言葉をうのみにして、いたずらに牽制しあっていた。12月7日、男子部総会で、一男子部員が「三代会長は俺だ」と短刀をもって壇上にかけ上がる事件があったが、その男も幹部間のぎこちない緊迫感を触知して、耐えられなかったのだろう。
 このころから、石田の聖教新聞への登場は目立って減っていった。彼は大石寺での夏季講習会の講師を担当し、組織面から教学面に移されつつあった。それは、「学会きっての理論家」(『聖教新聞』昭和32年10月4日)と評される石田の悲劇だった。また彼の唯一の組織担当である九州総支部長は要職ではあったが、ここにきて遠隔地という裏目が濃く出てきた。総支部の少なかった時代の戸田の意図は、彼を飛ばすこととはまるで逆だったのだが。
 石田の地盤低下は9月の『折伏教典』改訂版の刊行でさらに追い打ちをかけられた。同版の編集は小泉を中心に教学部で進められ、改訂前との主な相違は、石田の書いた第一章生命論が、戸田の講演筆記と入れ替えられたことにあった。
 石田は生命論の根拠を、日蓮の佐渡御書――人の衣服飲食をうばえば必ず飢餓となる。持戒尊貴を笑えば貧賤の家に生ず。養戒を笑えば国土の民となり王難に値う。是は常の因果の定まれる法也――に求めて、旧版では過去から現在の因果、現在の差別の理由の説明といった面が強調されていた。
 これに対し、改訂版では、「生まれ落ちると女中さんが30人もくっついて、婆やが5人もいて、年頃になれば、優秀な大学の卒業生としてお嫁さんは向うから飛びついてきちゃって、良い子供を生んで立派な暮しをして、そして死んでゆかなきゃならない。その来世の幸福を願うが故に、今、信仰させる」と、現在から未来への視点、努力による因果論から信仰による来世の幸福へのすりかえ、因果論の後退など、力点の置かれかたが変えられた。
 こうした改訂は、時代の変化に対応した、教理の「逆立ちしながらの唯物論化」(高木宏夫)の一環をなすものであったが、戸田の講演との入れ替えとはいえ、石田の巻頭を書いたという名誉を著しく損なうものであった。
 11月9日、第19回秋季総会が開かれ、3月の総登山、会員百万世帯、地方寺院の建立というこの年の三大目標の達成が発表された。またこの日、十支部が新設され、理事・辻武寿が福島支部長に、文化部長・鈴木一弘が川崎支部長に任じられた。
 公称世帯数をそのまま受け取るなら、この年の対前年成長率は37パーセントで、前年の53パーセントに較べて大きな落ち込みであった。が、伸び率の逓減性を考慮にいれるなら、まずさほど遜色のない、戸田亡き後の第一年であった。




  • [38]
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  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)13時00分39秒
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 三代目への抗争

 戸田城聖の遺産の行方

 戸田の突然の死は、会の内外を問わず、一般に創価学会の迎えた最大の危機と受け取られた。
 それはまず、戸田の死自体が彼の唱えていた功徳を裏切って、会員に教義への疑惑を抱かせ、不安や動揺を与えると考えられた。また戸田は後継者を指名する余裕を持たなかったから、会幹部間に第三代会長をめぐっての内紛が生じ、それがひいては同会の空中分解や分裂をもたらすと取り沙汰された。
 池田自身、当時をこう回想している。
「(池田が)参謀室長当時、戸田先生が一年間病気の時期があった。暗い時代であった。小泉(隆)さんが理事長。ギア(が)はまらなかった。どうしようもなかった。空中分解寸前だった。戸田先生がなくなられたとき、小泉理事長はいても、一寸先は闇で、わからなかったといっていた」(昭和50年9月28日、箱根研修所で、内部文書)
 また空中分解には至らないまでも、それまでの爆発的な発展を負っていた戸田の卓越した指導力や組織力、人柄の魅力が失われて、以後の創価学会の停滞と困難が予想された。
 折伏攻勢に悩まされていた「邪宗」はこのように考え、喜びと希望的観測とをもって、創価学会を攻撃した。
 しかし、危機意識は残された創価学会幹部の共有するところでもあり、他教団の反撃は皮肉にも、彼らの結束をいっそう強固にする働きをした。
 幹部たちは、前年の11月に戸田は自らの死を予言していた、その言葉は戸田家の女中が日記につけていると、功徳への批判を打ち消した。
 また戸田の私生活の面、ことに遺産配分は悪くすれば、創価学会の信用問題に発展しかねないものであったが、それをも大過なく処置したようである。
 由比宏道『毒鼓の縁』によれば遺産問題は次のように処理されたという。
 戸田の妻・幾子は、戸田の死まもない4月23日、取引銀行である三菱銀行四谷支店長に、戸田名義の財産がどれだけ残っているか、調査を依頼した。彼女は、印税と株を動かした儲けが4億円ばかりある、と戸田から聞き、また戸田個人で費消する金は、幾子の父・松尾清一名義で三菱銀行番長支店に預けられ、その中に自宅の新築資金2,000万円も含まれている等のことを知っていた。なお当時、創価学会は出版収入などで、その月収は2億円にのぼると噂されていた。
 が、調査の結果、戸田の死の翌日4月3日、戸田の妾で大蔵商事専務理事でもある森重紀美子により、名義が書き替えられていることが判明した。そのため仕方なく幾子は、戸田の生前、会長印を自由にしていた秘書部長・和泉美代(大蔵商事社長で創価学会小岩支部長・和泉覚の妻)を通じて、戸田の財産譲渡を会幹部に交渉した。この幹部に、大蔵商事の取締役だった池田も含まれていたかもしれない。
 後日、幹部は戸田名義の財産は8,000万円で、うち2,000万円だけを渡すといってきた。どのような事情があったのか、これで戸田家との遺産問題は決着した。また全国の信者から集められた香奠も、幾子の催促のすえ、ようやく6月9日に、4,000万円から創価学会会葬の費用400万円を差し引いた残り3,600万円が戸田家に届けられた。
 戸田には跡部雅子という妹がいたが、彼女も遺産分配を請求した。雅子は岩手県一関市に住み、当時、地元の商事会社社長の2号だったという。彼女は、戸田家からも創価学会からも遺産分配をはねつけられたため、12月2日上京し、知人を介して和泉美代に折衝し、すったもんだのあげく、彼女の所持する戸田関係書類(手紙など)と引き換えに34万円を受け取った。
なお池田は会長就任後、大蔵商事を離れ、同社社長は森重紀美子、のちその甥の森重章とかわった。が、同社は昭和40年ごろ脱税容疑で国税局の手入れを受けて経営が大きく傾き、同年12月、社名を大道商事と変更、事務所を東京・赤坂のホテル・ニュージャパン内に移した。44年5月、第一商事を併せたが、同社の放漫経営は続き47年ごろ創価学会員からの金約3億円が焦げついたほか数億の負債を負うまでになった。
 池田は同社の倒産を防ぐため、中西治雄に命じて経営管理に乗り出させ、中西は会幹部の菅原亮を経理担当取締役に、会弁護士の今井浩三を法律顧問に送り込んで建て直しを図り、創価学会の会館や研修所の土地売買、正本尊などの火災保険を扱わせた。が、森重は蒸発し、菅原は中西と不仲となって50年に病死した。同社の経営は創価学会の強力なテコ入れにもかかわらず改善せず、49年12月、再度社名を株式会社日章とかえ、事務所を東京・世田谷の北沢に移して、社長も元公明党議員の金井賢一、役員を松尾俊人らに入れかえ、監査役に会弁護士の福島啓充をつけている状態という(『週刊文春』昭和55年12月11日号)。
 また戸田の死後、池田の指示で戸田家から彼の遺品が運び出されたことは事実のようである。28年7月に入信、当時東京蒲田支部の男子部部隊長だった某は次のように語っている。
「戸田会長が死んで一ヵ月もたたないうち、トラック二台、運転手を入れて6人が戸田家に行った。私はその一人であり、私のほか、竜年光、大田区議をしていた園部恭平などがいた。戸田家にはすでに白木薫次と池田が詰めており、十文字に麻縄をかけられた茶箱をトラックに積み込んだ。あまり積み上げるなということで、二段に重ねただけである。
 当時のトラックは小さく、荷台は二畳半から三畳のスペースしかなかった。荷物には二人がかりでやっと持ち上げられるほどに重いものや、軽いもの、あるいは外見から刀剣と分かるものなどがあった。幾子夫人は険しい顔をして応対が悪かった。
 私たちはそれを本部に運んだが、乗用車で追いついた白木と池田の指示で裏口近くの物置きに収めた」
 上乗りをした某は軍刀、掛軸、花ビンなどの美術品だったようだとしているが、戸田家に近い筋は、掛軸を含め家の中がカラッポになったことは事実だが、戸田に収集の趣味はなく、どの程度値打ちがあるものか分からなかった、といっている。
 創価学会の幹部たちは、理事長・小泉隆を中心に、団結を合言葉とし、戸田が死の寸前に指摘したという内部崩壊を警戒しあった。
「(竜年光が)『先生、身延も既に敵でなくなった。ジャーナリストも敵ではない。一体、学会の敵は何ものでしょうか』とおうかがいしましたところ、先生は体を起されてはっきりと『それは内部だよ』とおっしゃいました」(『聖教新聞』昭和33年4月18日)





  • [37]
  • 池田大作「権力者」の構造

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)01時41分25秒
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  宗門をめぐる二つの出来事と戸田の死

 戸田は昭和32(1957)年11月以来、肝臓と糖尿を患っていたが、33年2月、いったん回復した。2月11日、彼は満58歳の誕生祝いを行い、招いた在京大幹部を前に陣頭指揮への決意を語った。
「会長就任以来7年になるが、私は7年目ごとに難に逢っている。今度の病魔も打ち破ったのだから、もう7年また会長としてがんばるから一つよろしく頼む。・・・・・『源深ければ流れ遠し』の通りで、要するに学会の振興は会長自身がしっかりしなければならん。・・・・・明日から以前と同じように本部へ行って指揮をとる」(『聖教新聞』昭和33年2月14日)
 3月1日、法華本門大講堂が大石寺に落成し、大法要が行われた。同講堂は5階建のビルで、工期1年3ヵ月を要し、その工費4億円は創価学会信者による寄付でまかなわれていた。
 大法要には当時の首相・岸信介、文相・松永東が祝辞をよせ、また東京都知事・安井誠一郎等が出席した。創価学会会員はその日から3月いっぱい、20万人が慶祝登山し、その間、戸田は本山に滞在して指導にあたっていた。
 同月16日に、戸田は自民党の南条徳男、堀内一雄を通して岸を大石寺に招待した。岸はそれを受けたが、池田正之輔に反対されて急に出席をとりやめ、代理として夫人、娘婿・安倍晋太郎、南条徳男を出席させた。
 岸を迎えるため大石寺には青年部6,000名が整列していた。戸田は男子部幹部25人のになう、池田の考案になったという車駕にのって、自身、「広宣流布の儀式の模擬試験」と意義つ゛けた歓迎大会にのぞみ、次のように述べた。
「日本の政権を保って、社会党と共産党をおさえて行ける人は岸先生しかいないということを、あの人が幹事長の時に心から深く思って、尊敬していたんです。
 今度も一日の落慶法要には来れないって云うから、そのあとはどうだと云ったら、16日なら行くちゅうので、今日は楽しみにしておったが・・・・・。
 ・・・・・しかし、お嬢さんと坊ちゃんと奥様と、その他自分がこの人と頼む人々ですね。さしむけて本山へよこされたその誠意というものは、私は心から嬉しく思う。
 ・・・・・岸先生がこれからどんな立場になってもわしは悪い人だとは思いません。それが友人のまごころじゃないでしょうか(拍手)。君らも、そういう心で、岸先生とつき合って下さい。
 ・・・・・私は宗教団体の王様なんだから(拍手)岸先生は政治団体の王様なんだ」(『聖教新聞』昭和33年3月21日)
岸の欠席は戸田をいたく落胆させたが、それにしても法華本門大講堂の完成は、彼の最期を飾る華やかな幕切れであった。新興宗教の教祖は多く、画期となる建物をつくると安堵から死ぬというが、どうやら戸田もその例外ではなかった。この日から彼の衰弱は加わり、本山の理境坊で手当を受けつつ、静養しなければならなくなった。
 が、戸田の最期を飾るものは大講堂の完成ばかりではなかった。僧侶・的場正順(のちに鳥取市日香寺住職)へのリンチ事件が、衰弱を深める戸田にたむけられたのである。
 事件は、戸田と創価学会の威に服さない気骨ある僧侶への私刑であり、創価学会に抵抗するとどうなるか、的場ばかりか他の僧にも示すみせしめであった。
 的場がのちに一僧侶に宛てた手記によれば、事件の概要はこうである。
 大講堂落慶法要の際、創価学会の青年部員3、40名が大石寺の大坊に泊まり込んでいた。彼らは僧の卵ともいうべき所化を、タバコを買いにやらせるなどの私用に使い、チップがわりに菓子を与え、ソバ代を出すなどしていた。彼らには所化とはいえ、僧侶一般に対する畏敬の念はなかった。所化を指導する立場にあった的場はこれらのことを見聞きし、青年部責任者・土屋某に再三にわたって注意を促した。
 3月22日の夜、的場は青年部員間で、「正宗の坊主も邪宗の坊主となんら変わりない。ものさえ与えれば、いうことを聞く」と話されているのを聞き、翌23日朝、大石寺内の一僧坊である六壺に所化と青年部員を集めて厳重な注意を与えた。
「大坊は一人前でない僧が法主の指南で修行する場所であって、本来が青年部員の起居するところではない。教育にさわるような真似はやめてほしい」
 的場は語をつぎ、前夜の青年部員の話を論難した。
「邪宗の坊主と同じだというのは物を知らなすぎる。ではいうが、戸田は16日、岸を迎えようとした際、宗教団体の王様は私だといったが、これはどういうことか」
 宗門の立場からいえば、宗団の王者は、日蓮であり、また日蓮を体現する本尊、あるいは法主となろう。的場は創価学会の宗門支配を苦々しく思い、いわば法主にかわって、戸田の車駕による境内練り歩きなどを批判した。山門には下馬下乗とあって、法主でさえ山門を出るまでは乗り物を利用できない。
 が、この3時間後、的場は池田に呼び出されて裸にされ、近くの御塔川原に放りこまれる。青年部員がかわるがわる的場に馬乗りになって的場の顔を水の中につけ、池田はポケットに手を入れて見下ろしながら、指揮したという。
 的場は事件後、被害者にもかかわらず逆に約2週間の謹慎を命じられたうえ、北海道の新寺院に4年、その後、鳥取へと、地方回りの生活を余儀なくされた(『週刊文春』昭和52年9月1日号)。宗門は創価学会の組織と財力に制圧されつくして、的場の正義をバックアップすることも、その権利を回復することも長くできない状態にあった。
 4月1日早朝、戸田は医師の診断で本山の理境坊から東京に運ばれ、そのまま神田の日大病院(現・駿河台日大病院)に入院し、翌2日、急性心衰弱で58歳の生涯を閉じた。
 8日、戸田家の告別式が雑司ケ谷の常在寺で行われ、信者12万人が焼香した。
 19日、日蓮正宗法主・堀米日淳は故戸田に法華講総講頭の称号を贈り、またその前に大宣院法護日城大居士の法号を授与した。
 20日、創価学会葬が挙行され、25万人の創価学会員が参加し、これには岸も文相・松永も会葬した。新聞は、「首相〝200万信者〟に焼香」と報じた。





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  • 池田大作「権力者」の構造

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  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)01時39分19秒
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  選挙違反に見る創価学会の論理

 昭和32年5月19日、炭労(全日本炭鉱労働組合)第17回定期大会は、運動方針に「新興宗教団体への対策」という一項を付加し、組合運動に悪影響を与える創価学会への対決方針を打ち出した。ついで6月27日、北海道炭労はそれに従って「新興宗教対策」を発表、炭鉱地帯からの創価学会の締め出しを指令した。
 戸田は炭労のこうした動きに「信教の自由」で反論し、参議院議員・辻武寿、白木義一郎、理事・石田、渉外部長・池田らを北海道に送り、また自らも渡道して7月1日札幌で、2日夕張で炭労弾劾大会を開いた。
 大会の席上、池田は、
「炭労の幹部が、組合活動で救えなかった人たちがここに大御本尊様によって救われたのであります。したがって炭労の幹部がガヤガヤいうことはやきもちをやいているのじゃないかと思うのでございます」(『聖教新聞』昭和32年7月7日)
 などと演説した。
 これより前、6月30日に学生部結成大会が開かれている。学生部長には仙台支部長・渋谷邦彦が任じられた。
 また4月23日、参議院大阪地方区の補欠選挙が行われ、創価学会からは船場支部長・中尾辰義が立ち(落選)、小泉、池田らが選挙運動にあたっていた。が、これにからみ、大阪府警は6月29日理事長・小泉隆を、7月4日池田を、「堂々と戸別訪問せよ。責任は私が負う」と会員に要請した疑いで逮捕し、7月29日それぞれ起訴した。
「創価学会幹部45人起訴
〔大阪発〕大阪地検は、去る4月行われた参議院大阪地方区補選での創価学会幹部らの公選法違反事件について、29日、同学会本部理事長、東京都議小泉隆(48)=東京都大田区蒲田5の11=ら45人を買収で、(うち2人は略式請求)同渉外部長池田大作(29)=同区調布小林町388=ら3人を戸別訪問で、それぞれ起訴した。起訴状によると、この選挙で、小泉理事長は主として〝実弾作戦〟を、池田渉外部長は戸別訪問をそれぞれ担当、現地で指揮に当たり、大阪、船場、松島、梅田、堺の5支部に「選挙係」を設け、府下約6万世帯の信者のほとんどを戸別訪問に動員したもの。
 投票数日前には、〝タバコ戦術〟として職安十数ヵ所で、日雇労務者に候補者名を書いたピースなど約4000個をバラまいたという」(『朝日新聞』昭和32年7月29日夕刊)
 池田は大阪東署に15日間留置され、検事のいうがままの調書に署名し、7月17日(小泉は15日)保釈出所した。この間、創価学会は事件(大阪事件とよばれる)を、同会を「おとしいれようとして仕組まれた策謀」だとして、小泉、池田以外の関係者41人を12日、戸田命令で除名し、小泉、池田の即時釈放を要求する大会を12日東京で、17日大阪で開催した。
 大阪大会には出所直後の池田も出席し、
「大悪起れば大善来たるとの、大聖人様の御金言の如く、私もさらに、より以上の祈りきった信心で皆様とともに広宣流布に邁進すると決心する次第であります」(『聖教新聞』昭和32年7月21日)と挨拶して、事件が彼の信心をぐらつかせず、逆に強固にしたことを明らかにした。
 大阪事件は牧口、戸田と二代続いた下獄を連想させ、会長をめざす池田にはプラスに作用した。
 事件は翌33年小泉が無罪となり、4年後の37年1月25日、池田が禁固十月の求刑を受けたものの、戸別訪問の指示を立証できず、無罪を判決されて解決した。
『聖教新聞』昭和37年1月27日は、公判の結果を報じて、「『大阪事件』に勝利の判決 無実の罪晴れる 裁かれた権力の横暴」と大きく見出しにうたったが、「勝利」は池田にかぎったことで、他の会員にとってはそうでなかった。このとき、同時に、池田以外の20人の創価学会員に対しては戸別訪問で罰金1万円から3千円、うち10人に公民権停止3年、7人に同2年の判決が言い渡されている。見出しは彼らの存在を無視したものである。
 さきの戸田の41名除名は、幹部に累をおよぼさぬため末端会員の信仰を恬然として切り捨てる戸田の非情さを物語っているが、それはそのまま池田に受け継がれて有罪の会員を度外視させた。池田もまた一将功成って万骨枯るの犠牲の上に、第三代会長の栄華を謳歌したのだった。
 昭和32年9月8日、青年部東日本体育大会が開催され、その席で戸田は、意向は諒としても酔っ払いの論理に似てあまりにも名高い原水爆問題についての宣言を発表した。
「もし原水爆をいずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。それをこの人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でも、それを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります」(戸田『講演集』下)
 池田は後年これを『人間革命』4で、「深い洞察」として持ち上げたが、持ち上げるほどに、池田の社会科学的な常識の欠如と非論理性を証しかねないといった宣言であった。
 9月26日、九州に総支部制がしかれ、総支部長に石田次男が任じられた。石田は27年の第1回地方折伏以来、九州を手がけ、福岡支部を育てあげてきた功労者である。小岩支部長の石田の後任には和泉覚が任命された。
 12月、戸田の目標とした75万世帯が達成されたと発表された。





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  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)01時36分50秒
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  謀略による日蓮正宗支配の強化

 昭和31年3月、大石寺では水谷日省が退座し、堀米日淳が第65世法主になった。水谷日省は池田の義父・白木薫次が大石寺大奥(大坊。法主が住み、宗務をとる)に勤めさせた女性と情を通じ、子までもうけたという。当時、水谷は夫人を亡くし、高齢ではあったものの「ネコにカツブシ」の状態だったと事情を知る元僧侶は語っている。このことを柏原ヤスが池田に知らせ、池田は「狸祭り事件」で、謝罪文提出、大講頭罷免、登山停止の罰を戸田に課した水谷日省に報復するため、この醜聞をもとに日省に退座を迫ったとされる。
 日省は引退後、生まれた子を正式に認知したというが、創価学会による宗門支配の試みには、早くから謀略の臭いが漂う手法がとられていたことを知るのである。
 水谷の跡をついだ堀米日淳は、戸田が会長就任式の会場に使った東京向島、常泉寺の住職であって創価学会との関係が深く、彼の代になってから創価学会の日蓮正宗支配はいっそう進んだ。
 3月、助教授に指導教授制がとられたが、池田は、のちに創価学会=公明党による出版妨害に対する批判キャンペーンの発火点となった藤原弘達事件で名を出す藤原行正を担当、指導することになった。
 6月30日、参議院選挙を前に選挙妨害対策委員会が結成された。委員長に小泉隆、委員には白木薫次、石田次男、鈴木一弘、池田など20人が就任した。このころ全国各地の警察は創価学会が関係する事件を数多く手がけており、それがひいては選挙妨害を結果するとの見地から結成されたものであった。
 7月8日、参議院選挙が行われた結果、全国区では辻武寿、北条しゅん八が当選、小平芳平、原島宏治が落選、地方区では大阪の白木義一郎が当選、東京の柏原ヤスが落選した。全国区での創価学会員得票総計は約90万票で、公称会員世帯数の2.44倍であった。
 7月24日、参院選に当選した青年部長・辻武寿は理事、青年部顧問になり、それにともない男子部長・牛田寛は青年部長、男子第五部隊長・秋谷城永は男子部長にそれぞれ繰り上がった。
 秋谷は早大仏文の出身で昭和26年12月に入信、石田次男の下で聖教新聞編集主任をつとめ、「カミソリの様に切れる理智的な頭」と評されてていた。池田クラスからは一段後輩のキレ者だった。彼は32年3月、和泉覚夫妻の媒酌で石田の妹、女子第三部隊長・石田明子と結婚した。が、その縁組は必ずしも石田と秋谷の強固な結束をもたらさなかったようである。




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  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)01時33分9秒
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 蓮華寺事件・小樽問答・政界進出

 30年1月23日、大阪で創価学会西日本三支部の連合総会が開かれ、関西の日蓮正宗寺院の全住職が参加した。が、日蓮正宗の三大末寺の一つ、大阪市北区の蓮華寺住職崎尾正道は参加しなかった。
 戸田は28年、寺院再建の申し入れを崎尾に断わられたこともあって激怒し、翌日から創価学会員十数人をして連日、蓮華寺を囲ませ、参拝にくる信者を追い返した。この指揮は大阪支部長・白木義一郎がとった。崎尾はこのピケに対し、創価学会員に貸与した本尊の返納をせまって逆襲した。
 戸田はこれに手をやき、近畿地方の日蓮正宗の住職に圧力をかけて、連名で、崎尾に辞職勧告を送りつけさせた。また前述した「狸祭り事件」の小笠原慈聞もすっかり戸田に飼いならされ、崎尾の追放推進に一肌脱いでいる。さらに戸田は、本山宗務院にも意向を通じ、わずか信徒7人という滋賀県妙静寺への、崎尾に対する転任命令を出させた。この間、本山宗務院庶務部長・細井精道(のちの日蓮正宗第66世法主・細井日達)が崎尾追い出しに尽力した。細井は私立開成中学夜間部で戸田と同級であり、死没前の数年間を除いては創価学会派と目されていた僧侶だった。
 が、蓮華寺側の抵抗は奏効し、翌31年6月、本山との話し合いの結果、崎尾が両寺の住職を兼ねることで事件は一応落着した(第一次蓮華寺事件)。
 3月11日、北海道小樽市で日蓮宗との間に、「小樽問答」とよばれる公開の討論会が開かれた。創価学会は前年以来、北海道での布教に力を入れ、また日蓮宗を邪宗と決めつけて折伏攻撃していたから、一信徒の帰属をめぐっての論争が容易に創価学会対日蓮宗の宗論に発展したのである。
 戸田はこれを、創価学会の力を内外に宣伝する絶好の機会と考え、男子部第四部隊長・星野義雄を現地に飛ばして下調査させたうえ、石田次男、辻武寿、竜年光、池田らを日航機で小樽に送った。また勝敗を決する第三者の判定がないため、大声をあげた方が勝ちといったことを見てとり、会場の大半を埋めつくすほどの、会員の大量動員をかけ、自らも会場で指揮をとった。
 討論は両者とも司会、2名の講師を立て、主張、反論、聴衆の質問、講師相互間の問答対決という順で行なうことに決められ、創価学会側は講師に小平芳平、辻武寿、司会に池田を立てて対決にのぞんだ。宗論は混乱のうちに終わったが、創価学会側は野次と拍手で日蓮宗側を圧倒し、勝利を叫んだ。のちに同会はこの結果を本やレコードにまとめ、最大限に利用した。
 小樽問答における池田の司会は、創価学会側に立つものとはいえ、司会の名にそむく、かなりあこぎなものであった。
「〝小樽問答〟の席上、学会側司会者として終始万丈の気焰を吐き、異彩を放ったのが池田参謀室長だ。特に開会にあたり小平、辻の両討論者を紹介するに先立ち自己の大確信を6、7分間にわたり一席ブッテ、身延派信徒の心胆を寒からしめたことである、それが終って『簡単ですが―――』と、結ぶあたり、すでに敵をのんでる不敵さ、肝っ玉のデカサに唯感嘆の声を禁じ得ない」(『聖教新聞』昭和30年3月20日)
 池田の声は大きく、敵への説得力は論外としても、味方を沸かすには不足しなかった。彼の演説の効力は、反対者を自陣に引き入れる煽動にはなく、味方の意志の強化、再確認だけにあったが、組織をひきつぐ者としてはそれで十分用がたりた。
 4月23日の都道府県議選、同30日の市議選に創価学会は候補をはじめて立て、東京都議に理事長・小泉隆、横浜市議に財務部長・森田悌二、川崎市議に文化部長・鈴木一弘、東京各区議に竜年光、原島宏治、藤原行正など、計52名の当選をかちとった。
 この中で選挙は地割りが基本であると学ばれ、5月、東京にブロック制が実施され、以後、各地におよんだ。ブロック制は折伏―――入信の系統による基本組織(タテ線)とは別の、ヨコ線と呼ばれる地域別組織である。
 8月、全国45都市に600数十名を派遣する地方折伏が行われ、池田は札幌担当の主将に任じられた。札幌班は400世帯を折伏、入信させて第一位を獲得した。
 またこのころ、池田は蒲田駅近くの小林町に住宅を買った。借地で、建坪は23坪、四室で100万円、義父の白木薫次に頭金を借りたという。
 当時すでに池田は、戸田の手駒の一人として、運動を身をもって体験し、学ぶ段階をすぎ、立派な大幹部の端くれであった。いわば運動の徒弟から、戸田の利益が自分の利益に合致する協力者の一人にのし上がっていたのである。





  • [33]
  • 池田大作「権力者」の構造

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  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)01時30分49秒
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 渉外部長・池田大作(ナンバー14)

 7月5日、全国主要20都市に幹部等250名を投入して行われる地方折伏のメンバーが発表され、池田は主将・柏原ヤス、副将・牛田寛の下で、札幌を担当した。
 8月23日、蒲田支部に副支部長制がしかれ、池田の義父・白木薫次はその副支部長に任じられた。池田の義母・白木静子もさきの席次にある通り、本部婦人部常任委員であり、池田の係累は白木の理事就任を機に、急激に抬頭していった。
 10月31日、戸田は男女青年部員10,000名の大石寺総登山を行い、近くの高校校庭で「大出陣式」を挙行した。ほぼこのころから、ジャーナリズムは創価学会の活動に注目しはじめ、大出陣式の模様も当時の雑誌によってルポされている。創価学会がどのように見られていたかをよく伝えていると思われるので、次に引用しよう。
「式は北条主任参謀と称する男の開会宣言にはじまり、『我ら精鋭、国士として東洋広宣流布のために死をとしてあくまで闘い抜かん』というような宣誓。それから数十流の部隊旗をつらねて分列行進に移れば、会長の戸田城聖が天皇気取りで白馬〝銀嶺号〟にまたがり閲兵を行い、空には元加藤隼戦闘機隊中隊長黒江某が操縦する富士航空のセスナ機が飛んで、低空で頭上を旋回して機上からメッセージを投下。白鉢巻姿でナギナタもどきに登山杖を小脇にかいこんだ約4,000名の女子部隊は『・・・・・起て憂国の乙女らよ、使命果さん時は今、国士たる身のホマレもて、歴史の花と咲き咲かん・・・・・』等と部隊歌〝憂国の華〟を大合唱―――というような、これが終戦後10年の現実か(?)と目をうたぐりたくなるような有さま」(『真相』昭和30年83号)
 戸田は軍隊組織が上意下達の集団行動にはもっとも効率的と考え、部隊や隊、分隊、参謀のほか、攻撃隊、偵察隊、輸送隊、軍楽隊、軍歌まがいの部隊歌まで作っていた。
 創価学会が短日月に急伸した理由のひとつに、戦後の日本での軍国調の再現が挙げられる。敗戦後、日中戦争以来の軍事的緊張感は急断され、多くの青年層は虚脱状態に陥っていた。創価学会はこれに応え、「死を賭しても」という緊迫感と精神の昂揚を彼らに与え、彼らを「邪宗」との闘争に導き、英雄的な陶酔感を味わわせた。池田も「身命を捧げて」といった言葉を多用している。
11月7日、青年部は後の文化祭の母体となる、〝世紀の祭典〟と銘打った体育大会を東京世田谷の日大グラウンドで開催した。このとき軍楽隊が誕生したが、池田はそのための楽器を買う費用にと、貯金から50,000円をおろし、醵出したという。
 戸田は偉丈夫といってよいほどに長身で、青年たちを集めては相撲をとらせることを好んだ。池田は運動という面ではまるで駄目で、戸田を喜ばせることが出来なかった。彼はそのような折り、多くの運動着に着替えることをせずに背広で通し、自分は「別格」という雰囲気を漂わせていたという。実際、彼の参謀室長という肩書は青年幹部中のエリートを意味し、女性会員から特別の目で見られたようである。若い女性幹部は参謀室員にあこがれていた。
  「ためしに、好きな男優は、ときいてみたら、たちどころに異口同音に、三船敏郎、と答えた。なるほど、では、もっと身近なところの男性では?と聞くと、これもたちどころ同音に、参謀室にいるような人、といった」
(佐木秋夫「『創価学会』の著者受難せり」『中央公論』昭和32年11月号)
 池田の外面は背が低く、色黒で、毛むくじゃら「とにかくカッコよくなかった」と、当時の女子部幹部はいっているが、それでも池田の会長就任間近の昭和35年、彼に背広を着せかけて、すいませんといわれたとき、「さびしかった」と語っている。
 池田は名誉会長に退いた後、複数の女性会員との情交を批判されることになるが、そのうちの一人との発端はこのころに始まる。彼はその女性に「(妻の)カネコがいなければなあ」との殺し文句を並べはじめていたという。
 また、ある女子部幹部は池田から有楽町のレストランに誘われ、「ぼくは孤独だと池田がいうのです。誰も味方がいない、助けてほしいって。私も若かったから、ボロボロ涙をこぼしてしまいました。池田は契りを結ぼうというのです」と当時を回顧している。この場合の「契りを結ぶ」はお互い運命共同体でいこう、との意味だったという。
 池田は男女を問わず、これはと思う幹部会員に働きかけ、自陣に組み入れようとした。多数派工作だが、彼は戸田の間近な死を予期していず、また彼は全身全霊を創価学会に投入して他に生活を持たなかったから、意識的工作というより、むしろ石田次男に対抗するための地盤の培養というにふさわしかった。石田の御書講義は流暢でいて歯切れよく、対して池田のそれは論旨が飛んで流れず、聞いていて気持ちがスッキリしないことが多かったという。当時の会員評によれば、石田は抜群の教学力と戸田の強引な引き、明晰な頭脳を持ってはいたが、大衆性にはやや欠けていた。池田は頭脳面で石田に劣ることを自覚していたから、対抗するためには経済面の掌握と自陣の強化しかなかったといえよう。
 11月22日、文化部が設置され、部長に男子第一部隊長・鈴木一弘が任命された。文化部は翌30年からの政治進出に向けての指導機関であった。
 12月13日、情報部が解消されて新たに渉外部が設置され、部長に池田が就任した。渉外部はようやく社会的に注目されはじめた創価学会のマスコミ対策機関であり、池田は早くも翌年2月16日、渉外部長として、『読売新聞』埼玉版の記事「はびこる創価学会 県下の信徒5,000名」に抗議するため、同紙の本社と浦和支局を訪問している。
 渉外部長は、池田が戸田の死没前、最終的に達成した最高の地位であり、以後、変化といえば栄転と兼任意外になかった池田のトントン拍子の出世も打ち止めになった。この渉外部長の職によって池田は本部部長の末席を汚し、そのランクは鈴木一弘に次ぐ第14位となった。





  • [32]
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  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)01時29分7秒
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 理事・石田次男(ナンバー6)VS.池田(ナンバー40)

 5月3日、第10回春季総会が開かれ、戸田は理事の交替と理事長制の復活を定議し、理事長に小泉隆(蒲田支部長、企画部長)、理事に柏原ヤス(杉並支部長、指導監査部長)、石田次男(小岩支部長、聖教新聞社編集長)、白木薫次(蒲田支部矢口大地区部長)を任命した。それまでの理事8人のうち、和泉覚、森田悌二、馬場勝種、原島宏治、辻武寿、神尾武雄が落ち、新しく石田と白木が加わったわけである。
 この理事の交替は、少数精鋭による理事自身の活躍の促進と、石田を早期に最高首脳部に加え、その機構に慣れさせるという、戸田の二つの狙いを担っていた。石田にとっては二度目の最高の抜擢であり、少なくともこの時点では、戸田は後継者を石田と決めていたはずである。
 が、一面、小泉、白木の理事就任は蒲田グループの圧勝を意味し、本来が蒲田支部の出身で、白木を義父に持つ池田にとっても好材料であった。
 同月10日、池田、北条、森田、竜ら7名は論文審査を経て、そろって教学部教授に昇格した。が、その論文というのは、①永遠の生命に関する御聖訓について ②広宣流布の予言と確信 ③種熟脱を論ず の三題のうち一題を自由選択して四百字詰め十枚前後にまとめるという、きわめて簡単なもので、翌30年に行われた助師、講師に対する登用試験(第一次論文審査、第二次筆記試験、第三次口頭試問)に較べても、一段と安直な審査であった。
 7月、各種行事の際の本部幹部、支部幹部の席次が決定された。本部幹部の席次(兼任の場合は上位席につく)を当時の現役者の氏名を付して掲げておく。

〇会長      戸田城聖
〇理事長     小泉 隆
〇前筆頭理事   和泉 覚
〇理事      白木薫次、柏原ヤス、石田次男
〇本部婦人部長  石田つか
〇本部部長(年齢順)
 財務部長 森田悌二
 統監部長 原島宏治
 秘書部長 和泉美代
 青年部長 辻 武寿
 教学部長 小平芳平
 情報部長 山浦千鶴子
〇支部長(年齢順)
 志木支部長  谷田藤三
 築地支部長  馬場勝種
 城東支部長  臼井正男
 足立支部長  藤田健吉
 中野支部長  神尾武雄
 本郷支部長  笹木正信
 文京支部長  田中つぎ
 向島支部長  星生 務
  仙台・大阪・堺・八女支部長は年齢順に加わる
〇支部長待遇(年齢順)
 志木支部  谷田コト
 蒲田支部  板倉弘典
 鶴見支部  山本宗司
 鶴見支部  佐々木庄作
 小岩支部  富田作十
 杉並支部  志村林一
 向島支部  松山道義
〇本部婦人部常任委員(年齢順)
 杉並支部  北条克子
 蒲田支部  白木静子
 築地支部  岩田きん
 蒲田支部  小泉 綏
 築地支部  馬場修子
 文京支部  井上シマ子
〇秘書部員
〇両部長並びに参謀室
 男子部長  牛田 寛
 女子部長  森田秀子
 参謀室長  池田大作
 主任参謀  北条 浩
 参謀    竜 年光
 参謀    森田一哉
 参謀    石田栄子
 参謀    樋口トシ子
 参謀    北条弘子
  以下各支部の婦人部長、第1から第15までの男女各部長が続く。
 この席次は多分に名誉制度的なもので、実勢力を反映していないが、それにしても石田の第6位に対し、池田はおおよそ40位程度にとどまっていた。





  • [31]
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  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)01時26分55秒
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 参謀室長、情報部最高顧問・池田大作

 『聖教新聞』昭和29年元日号の名刺広告に、池田は男子部第一部隊長、教育参謀、文京支部長代理、教学部助教授、学会秘書という五つの肩書を付している。これら多数の役職の兼務は池田にかぎらず、創価学会幹部の通例であり、それは多忙と、各部門の人員交錯により、分派の画策の防止をはかる戸田の人事管理術であった。
 この年から本部での個人面接は、各支部長と支部長待遇、地区部長が交替であたることになったが、池田は毎月第二週の木曜に担当することになった。
 同月、聖教新聞に社友、通信員制度がしかれ、池田も11名の社友の一人として、随時、同紙に執筆することに決まった。聖教新聞は石田の、かけがえのない存在意義を証するといった意味での牙城だったが、池田も同紙にかなりの影響力を行使することができたのである。
 3月30日、青年部は一支部に一部隊が設けられ、男女各15部隊に再編成された。これにより、青年部は戸田直属の親衛隊であるとともに、支部の折伏活動の機動力となることをも期待された。またそれまでの参謀部は新設の参謀室に解消され、池田は第一部隊長を解任されて参謀室長に、北条浩は主任参謀に、森田一哉、竜年光、山浦千鶴子、石田栄子、北条弘子、樋口トシ子は参謀に、それぞれ任命された。池田は旧男女部隊長の上に立ったことで、石田をのぞく有力な若手幹部のほとんどを自陣に引き入れる機会を持ったと見られる。
 この参謀室の性格は、池田の就任挨拶によれば、
「参謀室の任務はあくまでも広宣流布成就の青年部の立法機関であり、15部隊は行政機関である、又参謀室は大本営であり、各部隊長は武将であり将軍である。新しき闘争は民衆を相手とするものであり広宣流布途上に起る大衆性の問題政治経済等あらゆる一切の源泉の命令は青年部より発せられる。その命令をば男子部直結に行動成就していく」(『聖教新聞』昭和29年4月11日)
 という青年部の中枢機関であって、参謀部が男子部長の下にあったのとは異なり、青年部直属に図示されている。
 同日、本部に情報部が設置され、部長に山浦千鶴子、同部の最高顧問に池田が任じられた。








  • [30]
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  • 投稿日:2011年 7月 9日(土)01時24分52秒
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 池田の文章力および、改名とその野心

 7月21日、戸田は男子部幹部43名(前年昭和27年12月に非公式に発足、のちに70余名に増員、30年からは24名の第二期生となる)を選抜して、毎月2回の特別指導を与えるために水滸会を新結成した。同会の会場には、ふつう創価学会本部が使われたが、時に富士五湖へ出かけ、奥多摩にキャンプし、また戸田を新宿の洋食屋に招待することもあった。
 池田はその第一回会合の時、宣誓文を起草し、それに会員の一人ずつが署名捺印した。池田が書いたのは、彼が水滸会の指導格であったからではなく(指導格は辻武寿)、なにより筆まめだったからであろう。
 彼はこの年の『聖教新聞』元日号に、部隊長の竜がかくべきところ、彼にかわって第四部隊の抱負を書いているし、また24年、『大百蓮華』の校正を手伝った際には、余白を池田紳一郎のペンネームによる自作の〝詩〟で埋めてもいる。彼の文章力は、会内でも決して高く評価されていたわけではなかったが(たとえば、『聖教新聞』は彼の文章力について、「一面、文学的にももって生れたものを持っていることはあまり人に知られていない」《昭和29年5月16日》といいきっている)、生来、好きであったなりに筆まめで、池田の有効な武器になっていた。
「一、われら水滸会員は、宗教革命にこの身をささげて、異体同心にして東洋の広宣流布の大偉業を完遂せんことを、大御本尊様にお誓いいたします。一、われら水滸会員は、戸田城聖先生の大目的たる人類救出の御意志を受け継ぎ、その達成には、身命をささげて戦い抜くことを誓います。一、われら水滸会員は、学会の先駆であるとともに、戸田会長先生の無二の親衛隊なることを自覚して、いかなる事態になろうとも、かつまた、いかなる戦野に進もうとも、絶対に同志を裏切ることなく、水滸会の使命をまっとうせんことを誓います」(『大百蓮華』153号)
 ここに見られるのは、大時代な使命感と選良意識、戸田への絶対的な忠誠心だけだが、池田はこれを心から記した。彼は迷いや価値の相対観とはぷっつり縁がきれた、ふくらみに欠ける自信家だった。彼の確信は、彼が確固とした世界観を求めて彷徨した結果ではなく、たずねることを放棄したことによって生まれた。彼は戸田の教えこむ世界しか知らなかったが、信じ込むにはそれだけで十分であった。
 創価学会が一人の非信者を相手にする折伏を専らにして辻説法も行わず、そのうえ池田を短期間で、直接的な折伏からも引き離し、指導役に就かせたことは、彼を一般世間から遠ざけ、その視野をいっそう狭く、限られたものにしていた。彼がわずかに会外の社会とつながりを保つのは、創価学会とほとんど変わらぬ大蔵商事の営業部長としてで、それもあらわな金を通してに過ぎず、また結婚前には、家庭からも断ち切られていた。
 池田はいわば創価学会という純粋培養の器の中で成長し、その中で満たされていた人工人間であった。が、それだけに会内の立ちまわりには滅法強かった。
 水滸会の教材には『水滸伝』『モンテ・クリスト伯』『永遠の都』『三国志』『太閤記』『レ・ミゼラブル』等が使われた。これらはいずれも、不信と自信喪失の現代小説より前期の、血わき肉躍る情熱と行動の書といった点で共通しており、たしかに新興宗教幹部という一種の社会運動家を育成する教材としてはふさわしいものであった。
 池田は文学に毒されることなく、正義や同志愛、信念や純愛、はっきりした憎むべき敵などの単純に割り切れる世界に遊び、それらを短絡的に現実に持ち込める幸せを享受することが出来たのである。
 11月から創価学会員の寺籍の移動が始まった。それまで、ある寺院に所属する会員(檀家)が移転しても、遠隔地の者を折伏しても、すべてその寺への所属という点では不変だったが、創価学会員の各地での急増にともない、不便と混乱が生じていた。そのため会員の寺籍は居住地から最も近い寺院に移すことになった。これにより、すでに本山大石寺で確立されていた、日蓮正宗に対する創価学会の主導権が、全国の末寺にもおよんだ。
 11月13日、戸田は新宿区信濃町32番地の元イタリア大使館付武官の私邸(洋館、二階建)を1,150万円で買い取り、200万円で改造して創価学会の新本部とした。
 同月25日、前に述べたように、池田は太作を大作に改名した(それ以前から彼は会内で非公式に大作の名を使用している)。改名の理由はまず世間体への顧慮だったと思われる。彼はこの年、長男・博正をもうけ、子がもの心ついてから父の名を恥じないように、との思いもあったろう。が、彼の世間体はなにより彼自身の野心と関係していた。
 このころ彼は実家を訪ねて四兄と話を交わしたが、そのとき池田は車の後席に坐る身分になるといったという。
「弟(池田をさす)は『これからが多忙になり大変だ』というから、『自動車の免許をとって、活動したらどうか』といったんです。私は当時、免許をとって、小さな工場を経営し、すでに自動車で仕事をしていたもんですから。そうしたら、こういうんです。『僕は不器用だから、自動車の免許はとらない。見ていてくれ。自分は後ろに乗るから』」(央、前掲書)
 池田のすでに手に入れた、ある程度の地位はそれ以上を望ませ、彼の出世欲はいっそう熾烈になっていた。彼の身分は、次の年には会員に色紙を書くほどであり、その署名にも、彼が渇望する地位にも、太作の名はいかにもふさわしいものでなかった。







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