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咸鏡本線

 投稿者:特急あかつき  投稿日:2007年 1月 8日(月)00時29分59秒
  マユ35様
あけましておめでとうございます。
暮れはいろいろあって、そのテレビを見ることができませんでした。最近の北朝鮮は話題が多いので、テレビでの鉄道の様子には気をつけていようと思います。
 
 

咸鏡本線

 投稿者:マユ35  投稿日:2006年12月29日(金)08時14分52秒
  昨日の日本テレビ系列の特集番組で、現地に潜入した脱北ジャーナリストによる隠し映像が公開されていて、清津から平壌までの列車の様子が映し出されていました。咸鏡本線と平元線だと思いますが、客車はボロボロで塗装も剥がれ放題でした。  

Re:京義線

 投稿者:特急あかつき  投稿日:2006年 6月15日(木)23時19分15秒
編集済
  平壌駅の裏には陸軍倉庫、そして大同江との間には鉄道工場への線路が引かれ、また大同江の河岸には大同橋付近までの 2kmくらいの引込み線があったようですね。丁度ソウルの龍山の規模を小さくしたような配置で、引き込み線は京元線の位置関係だなと思いました。また(旧)西平壌駅は解放後も残っていたようで、旧線の平壌-西平壌が廃止になったあとも(旧)西平壌-(現)西平壌の路線が残っている地図(1988年刊)が手元にあります。元山の駅付近ではいつの頃なのか線路が山側に移転し、駅も移転しているようです。昔の駅は石隅洞のあたりにあり、そのころの木造平屋の古い駅舎の写真を見たことがありますが、保存されているのはそれなんでしょうか?  

続・京義線

 投稿者:マユ35メール  投稿日:2006年 6月14日(水)13時21分53秒
  先日はご指摘有り難うございました。手許にある平壌の戦前と現在の地図を見比べてみました。戦前は平南線が直進して、京義線が右に分岐する形になっています。当時でも駅では無く信号場のようです。現在は京義線が直進で、平南線が左に分岐していますが、光復橋付近で不自然な曲線を描いていますね。普通江の改修が昭和21年に竣工とありますが、工期を考えると恐らく戦前からの事業だと思います。また、動乱で平壌の街も様変わりしているので、痕跡を発見するのは至難の業ですね。京義線は現在の柳京ホテルの前を走っていたようです。また、かつては平壌駅前に引込み線が存在していたようです。
なお京元線の旧元山駅舎が、現在も保存されている写真を見たことがあります。
 

Re:津浦鉄路

 投稿者:キャセイ  投稿日:2006年 5月29日(月)00時35分16秒
編集済
  ありがとうございます。
胡桃沢耕史「上海リリー」では「こねい線」(上海-南京)で、
機関車+鉄道警備隊車輌+一等車+食堂車+郵便貨物合造車+三等車が何両も
(昭和19年ころ)となっておりました。(あくまでフィクション)
当時は郵便貨物車などで一等と三等をわけることはよくあったようです。
一等は国民党高級役人、軍人、外国人のち日本軍高級将校や
汪兆銘親日政権役人、裕福な中国人専用だったようで。
またこの線を後運営した華中鉄道では有蓋貨車改造の「四等車」もいましたね。

なお側面に大文字の感じで「津浦」とかいてあった、とありますが、
昭和3年奉天郊外で爆殺された張作霖の貴賓車も残る写真では、
そのような大文字の漢字らしきものが見受けられます。
この貴賓列車はもと清朝お召列車だった、とか。
張作霖の貴賓車、展望車(編成中に展望車、というのは不思議だけれど)
は外壁と内壁の間に砂が詰め込まれ機関銃弾にもたえられ、防弾ガラス。
コバルトに塗られていました。
 

津浦鉄路

 投稿者:特急あかつき  投稿日:2006年 5月28日(日)22時05分41秒
編集済
  この車両は、ブルートレインの特別車です。この写真の出展である「続・大陸の鉄輪12」からの引用ですが、「大正12年(民国12年、1923年) 5編成分として、6形式45両がアメリカン・カー・アンド・ファンドリー・コンパニーにおいて製作、デラウエア州のウィルミントン港から船積みされ浦口に陸揚げされている。車種の内訳は、1等寝台車10両、2等寝台車10両、3等寝台車10両、特別1等寝台車合造車5両、食堂車5両、特別車5両で、いずれも丸屋根鋼製2軸ボギー車である。長さは特別車が23.317mであるほかは、すべて22.098mといった長車体で、前後にわたりとおした外帯が腰を引き締めている。外板を鋲締めしたこの車は鋼鉄車であることを表徴するかのように強固な感じを受けるが、各窓は上部にいま一つの半円の窓を設けるなどなかなか優雅な容姿をしている。屋上に着いた通風器は水雷形をしているが、総体的にはやはりアメリカの流れを汲む満鉄の客車と相通じるというか同属的な感じを受ける。標記は腰板中央にワゴンリ車で使っているような、手の込んだ紋章を配し、この両翼に大文字の漢字で津浦、また幕板にはローマ字で、TIENSIN PUKOW とそれぞれ鉄道名を記し、車体下辺およびその両端に輪郭を描いて飾っている。また車種の表示を入り口脇の吹き寄せに漢字、腰の前後にローマ字でそれぞれ記すなどその国際色がうかがわれる。
特別車
後部に露台を設け一見展望車を思われるものがある。腰板の車種を表示する位置には泰山, TAI SHAN と中国五山筆頭の山名を記す。(露台よりには包車の文字が書かれている)など、粋をこらした室内装備と合わせて、優等列車の後尾を飾るにふさわしい形態をしている。ただ本車はプライベート・カーともよばれおり、特別車として貴賓用といった特殊な用途のみ使用されたものなのか、あるいは展望車として一般営業用に供されたか判然としない。しかし、姉妹車5両といったまとまった数量を購入し、5個列車に各1両当配される勘定から推して、一応営業を兼ねた運用がなされたものと思われる。」
なお、この写真と同一の車両写真が、上海鉄路博物館の展示車両の説明にもついていました。この車両は、ブルートレインの特別車ですが、展望車としての一般営業をしていたかどうかは判らないということです。
 

津浦鉄路・ブルートレイン

 投稿者:キャセイ  投稿日:2006年 5月28日(日)14時56分2秒
  ありがとうございます。
ところで「上海鉄路博物館」のページの最下段にある
モノクロの展望車はこの「ブルートレイン」の車輌なのでしょうか?
http://www.tt-museum.jp/asia_0030_cr1934.html

(すいません、下のはURL間違いなので、削除お願いします)
 

平壌付近旧線

 投稿者:特急あかつき  投稿日:2006年 5月28日(日)13時11分21秒
  マユ35さん ありがとうございます。
平壌市街部では線路付け替えが行われており、おそらくは、終戦近い京義線複線化の時と思われますが、それまでの京義線は平壌駅を出て、1.3kmくらいで、右に大きく曲がり、普通江に沿って半円を描くように敷設されていました。そして市街部中心の、現在の万寿橋のあたりに「西平壌駅」はありました。新線は平壌駅から北に直線的に作られ、在来線との合流点に「平壌操車場」ができました。それが、現在の「西平壌駅」になったもので、昔の駅とは別のものです。
そうは言っても、自由に行動ができるわけではないのでしょうから、そんなマニアックなものを見つけるのは不可能なんでしょうね?
 

平壌付近は

 投稿者:マユ35メール  投稿日:2006年 5月27日(土)22時34分53秒
  手許にある「朝鮮観光案内」では西平壌駅は健在です。私も実際に見たことがあり、そこではスイスからやって来たと思われる、軽量客車が客車の編成に組み込まれていました。平壌の開城寄りは大同江駅です。また、平壌・西平壌間で南浦へ向かう平南線を分岐しますが、地図上では駅の標記はなく信号場かと思われます。それとも公表出来ない駅かも知れません。写真に収めたかったのですが、時間の制約で出来なかったのは残念です。因みに現地の案内員に「京義線=キョンウィソン」は通じませんでした。  

京義線のこと

 投稿者:特急あかつき  投稿日:2006年 5月26日(金)20時04分38秒
  マユ35さん 初めまして。
特急あかつき と申します。これからもよろしくお願いします。
古い地図で見たときには、新義州-平壌が「平義線」、平壌-開城が「平釜線」となっていたと記憶してます。でも確かに「西海線」の方が良さそうな気がしますね。
平壌の街では普通江に沿った京義線や西平壌駅の跡など今でも何か残っているのでしょうか?
 

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